遠藤 一雄さん

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閖上で生まれ育った遠藤一雄さん。定年退職後も、閖上4丁目で暮らしていましたが、津波により家が流されてしまいました。現在では愛島東部仮設住宅の会長を務め、遠藤さん自身も愛島東部仮設で暮らしてます。震災後の仮設住宅での生活を中心に、会長として見てきたこと、感じてきたことなど様々な経験を話してくださいました。


区間わけと行政

Q. 小学校中学校は地域によって分けられていますか?
みんな一緒ですよ、あの、おおまがりっていうところがあるんですけども、ちょうどここから閖上の中間ぐらいに、そこまで閖上の区間なんです、学区みんないっしょです。

Q. どこからが閖上でどこからが閖上じゃないのか、ひとそれぞれ考え方が違うように伺いました。
そうそう、あのね、閖上のね、いまでいう、小学校あるね、ひいらぎの、あの辺までが、閖上区間なんです、名前はね。そしてそこから西側は丘区っていうんです。「おか」ね、普通の「おか」、丘区っていって、だけども学区はみんな一緒で、あの町内の運動会とかある時はみんな一緒ですから。

Q. 小学校はひとつですか?
ひとつ、中学校も一つ、ええ

Q. 丘区の方々も閖上に含まれますか?
そうですよ、うん、ただこうほんとの閖上っていう地名がついてるとこが閖上っていう感じだけども、その丘区ってとこも閖上地区さ入ってますから。だから今市長さんなんかよく現地再建でやってるっちゃね、やってるけども、丘区の方さ みんな住みたいってみんないうの現地再建より、こっちは閖上じゃなくて丘区っていうんだけど、結局みんないっしょなんだよね。結局みんなお互いに学校も小学校も中学校も卒業しておっきくなっても同級生だなんだってやってるんだから、それを市長さんわかったらうまくいくんだけどね本当は。こっちは閖上じゃない、こっちは閖上だってさ、差別したらよくないと思うんだな、そういうことやってるから進まないんだな

Q. 地名だけでみていて、
そそそ、そういうこと。

Q. 人間の関わり方に目を向けていないということなんでしょうか?
そそ、まぁ今閖上のことやってからだけども、こっちの人は差別だよね。普通はさ、名前から言ったら、同じ名前で暮らしてるんだからさ、だからそういうことやってたら復興もなかなかままならないんじゃないかなって、うん、行政の考えと違うから、うん。反発力がすごいんですよ。だから今このままで行かされて、工事に着工したとなっても、行く人がいなければまた見直し、するようになっから、市長さんも大変でないかな。

Q. どういった方が行政に関わっているんですか?
私たちはその名取市閖上地区の住民さんの意向をこっちを住みたい人の意向を、その人らの意見を市やなんなりに提出してやって、署名とかもやってましたよ。

Q. 受け入れてくれる感じではないのでしょうか?
あまりないね。市長がそのこうあんまり…かもしれないけど、普通なら市長さんこう長い時間で対応するでしょ、5分3分くらいでぱっと退出するんだもん、話にならん、うちら今こういうことやっても、宮城県会議員さんとか、俺ら一緒になって担当の西村さんとか今年の6月からな、復興庁にいってきたんです、西村さんと県会議員さんと私と、復興庁の大臣とお話ししてきたんです、でもあっちでも頑張ってくれって…てことで復興中の中でね、普通はすぐ帰るんだけどもね1時間以上もお茶のみしながら、大臣と復興大臣と。

Q. お気持伝えたんですか?
伝えましたよ。それで、それが県の審議員会に挙がったわけさ。ほら、西側さもってくとか、あと今計画どの場所をさ、災害公営住宅っていうのがたつんだってね、その公営住宅お寺の跡地さ建てたりっていう計画なのさ、誰もお寺の跡地にばっとたててもらって住めないですよね。まぁ先祖さんの頭こう踏みつけらってるようでねお前ら何やってんだっていわれそうだっちゃさ。で最初「建てる建てる」ってがんばってて、その私も市議会で代表で喋って、知事さんのいるところでさ。したら知事さん怒ってさ、市長と答弁することになったら、そうしたら建てませんってその場で言うんだよ。住民はその日まで建てるって思ってんだから、それで判断してんだから、そしたら今度建てねーっつんだからさ。じょうだんじゃねーってさ、その時のがれればいいっていう感じで話すんだよね。


ボランティアと自立

んー、やっぱりみんなもね、震災になって、ここにきたはいいは、人からもらうようなことではだめだと。ここから5年ないしね、出てきた場合自立心がなくなるから、まぁ出て行っても自立できるようにみんなでがんばるべって、ことでみんなでやってる。だからうちにほかの仮設みたいにボランティアさんにこれやってくれってさ、絶対うち言わないです。うん、だけども一度ねこの自治会で年に3回大きな祭りあるんです、3月4月になったら花見とかね、夏祭りとか、あと10月になったら芋煮会とか、それでここの自治会でみんないろんなことやって、ここだけだとあれだからって、たとえば上智大学さんに手伝ってもらってるから、その人さ声かけて招待しましょう、招待しながらやってるんです。うん、逆に。まぁお返しっつったらおかしいけど、俺たちにできること、ならやりたい。世話なった人に声かけて、だからNPOやってもらってる人とか文化大学とかね、なにもいらないからとにかく食べに来てくれって、うん。


閖上に戻りたいか

まぁね、俺たちも先祖さんたちからの代でずっと閖上にいるから閖上に戻りたい、でも、さっきもゆったけど丘区も閖上だから、その災害危険区域のちょっと西側っていうのもあるわけだっちゃ。だからそのへんでやっぱりやらねーと。ここからはもう閖上から遠くに行くっていうのは考えられねーかな。なるべく海の近くにはいねーとって思ってるけど。


遺体安置所での経験

そしたらだいぶ人亡くなってるってことで遺体安置所もうけたのさ。そして、二日目から私2か月半ぐらいその遺体安置所さ確認にいたんです、町内の人達もいるからね。で全部、最寄りの人みんな見つかって、連絡して引き取ってもらって、2か月半やってた。

Q. それは自分からやり始めたのですか?
そう、で、もうほれ、知人の弟だのいないだの、で、弟さんがね、ちょうど15日してぐらいあがってさ、俺が最初に見つけて、…あそこの息子さんだけ見つからなかったんだ、やっぱりお父さんより早く見つかってたのね。ところがね遺体がこっから半分しかなかったんです。それで見せられなかったから、DNAで4日ぐらいしてからわかったけども、で、私140体か150体ぐらいみんなに引き渡したんだ。分かってる人…もうあんな時は、ああいう人間見たりすっと思い出すでしょ。夜なんか。1日2日目ぐらいは、「あ、こんな人いたんだ」ってぐらいで、もうあとは日にち経ってくるとみんな一緒の顔してるよ。…だからなんともなくとは言わないけど、見つけても助けてあげれなくて悪かったってぐらいで引き渡ししたけどね。そういうことなんです。だからやっぱりね、だから今こんなことして、会長やって、みんなの協力もらってってことは、俺は生かされたから少しでもみんなのためにやらないとってやってるけど。まぁみんな長沼君とか役員さんたちがいいからね、みんなすぐに声かけると協力してくれるからそれだけがありがたいです。

Q. 震災を経験して人との協力性が本当に大事だなって、実感しました?
あー、思いますね、やっぱり何もない平和な土地は結局声かけたりなんだりしてやってけるけども、やっぱりなくなったら協力がないとやっていけないさ。個人個人ではね。


ボランティアとメディア

やっぱりやってくれてる人は一刻も早く復興してもらいっていう感じもあるんでねーの。やっぱりいろんな形で聞くけど、よく日和山に花植えるとかさ、でも結局花植えてもさ、正直な話、水やりにも来ないでしょ、植えるだけで、だれが水やるか。で、一回植えれば次に来ないでしょ、うん、そういうのまぁボランティアはボランティアなんだけどさ、ふつうやるならああやってSTEPさんみたいに、寒くても毎日3人でも5人でもね、やってるっていう人のほうがほんとにああいうひとをよく感謝しないと。んださ、花植えるのは一時的ださ、であと来ないんだよ。それでまた1年くらいしてから例えば花がなかったから花植えるかとかさ、それで植えっぱなしで誰があそこで水やりなんかするのね、しないでしょ。

Q. 単発なんですね。
そうそう、その単発的なことをやってんだ、ってことよりもさ、もう少しやり方があるさね。単発でなくてさ、やっぱりSTEPさんみたいにね、ああいう風に毎日とはいわねーけどさ、例えば2か月に1っペンとかね。あと植えた花どうなってっぺってじゃぁ水やってって、てくる人もいるっちゃね。

Q. 長期的なボランティアということですか?
そうそう、まぁ水かけなんかは5人や3人ぐらいでいいんだから。うんそんなに団体で花植えにさ来ることはないんだから。とは思う。
んー、メディア、の方でも、それをやっぱりある程度伝えるんだから、伝えるに対して、例えばこの人達がこれをやってくれたからとか、そういうことばっかりでなく、あたりの住民とか、だからおれが今言ったようにさ、ね、一回植えたらそれでいいって問題でないということば取り上げて言ってもらえれば、ある程度その団体でもメディアでぽっと流されれば、これはこれではまずいのかなって考えると思うのね。

Q. 最初から最後までやり切れてない部分があるんですね。
うん、そうなんだよね。まぁ俺だけの考えだかなんだかわかんないけど。それは見てたら、長いこと見てたら分かると思いますよ。

Q. やっぱりメディアも単発的な部分もあるように思います。

そうそう、だから日和山も鳥居いったって今花なんかないでしょ。暖かくなればまた出てくるっかもしれないけど今はないです。っていうことは寒くなったらこう葉牡丹植えるとかね、冬の華ね。やってれば、やってろばってことはねーけども、うん。それくらいの気持ちでね、やるくらいだったら、みんなも「あーまだ綺麗な花、冬になればあがってるな」とか、うん。そうするとねやっぱり度々やってると閖上の人さ、「あ、水もやんないで」ってかけてってくれたりするんだよね、だからこの間神戸から来てくれた人達、やっぱりみずやりしてっいったけろよ。やっぱそんなもんですよ。そうやって他の人気づいてやってるんだから、そういうの度々こうやってけば、住民に分かって、行ったらば、たとえば「ペットボトル2本持ってって水かけるかー」くらいのね、それが集まればそうとうなもんなるでしょ。だからそういうのも考えろば、いいのかなとか。うん、とは思います。うん。


これからの閖上の理想と現実

Q. 遠藤さんは、これが一番理想的な閖上だ、こういう町が将来あればなど、どのような閖上を想像していますか?
うん、結局ね、こ、2年前からやってんだけどもそういうの。みんな私たちの方で、図面だの出して市の方さ提出したりしてるんですよ。でもやっぱ受け入れられねーんだよね、うん、だめです。だから例えば閖上の大橋あるでしょ、あそこから仙台市さいくっちゃね。あそこも私たち最初提出したのが、ここ道路ね、閖上の仙台市の道路から、ここ嵩上げ(かさあげ)ずっとしてもらって閖上きて、今の大橋をちょっと海側にもう一本建てて、そこから嵩上げして飛行場のほうまで嵩上げしてっていうのを提出したのさ、そしたら市役所ではこっち仙台市だから仙台市との調認はむずかしいて、仙台市ではそういうことしないってゆってたのさ、そしたら仙台市でここかさ上げするってさ、あの、閖上の大橋まで6メートル、それを最初っからおれらゆってたやつなの、みろ、仙台市にとられたろって、なんつことなかったのさ。だからそういうことあるからむずかしいんです、我々一般市民がいろいろゆっても文句としかとられられないんです。だから市長さん曰く、進まないのは住民が悪いとかそういうこと平気で言ったりするんだから。で俺たち今、俺たちの会がほとんどでやってから住民のあれで。そしたらちょうど夏祭りの日、市長が来たんです。そしたらおれんとこ来て言うわけさ、「早く復興したいんですけども、遅らせてる人ら足をひっぱってね、いる」ってさ、だから「それは市長違うんでねーか」って、「市長も一応ここは誰も反対してるわけでないと、ここはここでいいから、もっと西さ行きたい人のことも考えたらいいんでねーか」って、言ったら、「いや、遠藤会長ば足引っ張ったりしてる」っていうわけ、「俺の名指しぜってーゆるさねーからな」って。ここでみんなの前でだよ。そしてみんなさ頭きてさ。「みなさん俺たちがやってることは足引っ張ってるって市長が言ったから」って、みんなわかってるんですよ。だから「あのやろー」って、だから市長にみんな挨拶して来いって言ったらみんな無視するんだよ。無視。で、そのあとに小泉しんじろうさん来たわけさ。で、小泉しんじろうさん来て、市長が1回挨拶しようと思ったら、みんな挨拶する前にね、「市長出てけー」だの言うんだよ。そういう言われ方もしてるんだから、だからそういうの聞いたらしんじろうさんも分かるは、「あ、この人はたいしたことないんだな」って。だからそういうの自覚してるよね、同じ街作るんだったら、まぁ良い町つくったらいいさ、そういうこともしねーから、もうなに言ってもだめですあの人は。
っていうのは一番機能してねーってのは住民の意向聞かねーからだよ。うん、これやりますよっていうだけだから、やるに対しての説明会もねーんだから。

Q. もう決定してるんですね。
そうそう、行政で青写真出てきて、「はい、今度こういうのしますよ」って始めて言うだけだから。で、そしたら今度なんやかんやって住民が言うと、また別なの、作って今度こういうなのやりますよって言うだけだから。

Q. 説明会で決められたことを言う前に、住民の考えを伝える場というものはないのでしょうか?
ないです。

Q. 完全に決まっている状態なんですね。
そうそう。決めてから持ってくるんです。

Q. それがやっぱり遠藤さんにとって一番言いたいことですか?
言いたいさ。

Q. 住民の意見を聞いてほしい、と。
最初は住民さの意向、こういう所に行きたいとか、こういう風な作り方してもらいたいとか、言って相談して、じゃぁ100%はいかなくても、じゃぁ80%とか、90%とかしますよって言って納得してやるんだったらはいるよ。でもそういう説明もないから、はい、決まりました、はい、決まりましたよって。今の復興案もそういうもんでしょ、うん。


伝えたいこと

Q. 外部の私たちに何かできることってありますか?
うん、やっぱりねそういう人がぜひとも、その区画行きたくないっていう人達のこと、行きたいって人はもう少ないんだから、行きたくないもう少し西側って人のことも声高々に言って、伝えてもらえれば

Q. 「西の」とはどの辺ですか?
うん、ようするに閖上、たとえばこう、あって今こう、区画整理がいまこの分だとしますね。そうするとここ、仙台空港の閖上大橋の道路だとしますね。そうするとこう、ようするに西側っていうのはこの辺さ。
だからその辺さ、住みたいって人が多いんだから、ここじゃなくね。それでここまでは嵩上げして、3メートルの嵩上げするんだけど、この道路から閖上大橋の道路からこっちはかさ上げしないんだから、そするとこっちさいくよりもこっちだったら金少なくて、たださっとね、ならしただけで住めるんだから、そういうことも考えていかないとね、小学校の周りさ住めるうちいっぱいあったんだから、そういうことこう人がいっぱいおりますよってことで、バンバン伝えてもらえればみんなも分かると思いますよ、そういうことやっぱメディアでも学生さんでも伝えてもらうと、やっぱ役所とかでもみてっからそういうことあのーようするに市役所の職員ってのは部長さんでも課長さんでも市役所がこういことおかしいなってのは思ってるっちゃ、だけども市長がいっから、答弁でも言いたいこといえないっぺさ、へたなこというと市長のとんでもないとこ破線するっから、こわくていえねーわけさ、うん。

Q. 権力ですね。
うん、権力、だからやっぱりメディアのひととかが、こういうとこからこう伝えてもらえれば、いやこっちのが早いと思うよ。

Q. じゃぁ、行政は自分たちが関わったところに住ませたいっていう、自分たちがやったっていう、手柄っていうかみせたいんですね
うんうん、現地再建っていうもの、それだけだから、だからこの震災になってこうこの辺でいうと、現地再建になったのはあんまりないでしょ、この辺だけでしょ。そういうことなんです。

Q. 外部に住んでいる方や、震災を経験していない方々に伝えたいことなどありますか?
うん、まぁあれだな、やっぱりこう復興のことにしてもさ、外部っていうか人たちは聞いたり見たりしなきゃわかんねーわけさ、ちゃんと進んでるんじゃないかって思うさ。ところがこういうこともあって、みんなも苦労してるっていうことを伝えてもらえれば、うん。まぁ忘れないで、見ててください、って。なにかあった時に応援してくださいって。まぁ応援っていうのは物をくださいっていうんではなくてさ。こういうことで何かあった時にそっちからもがんと口をいれてもらって。やっぱり外部の方からもみてもらえればそれはいいことだからさ。


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渡辺 カツさん

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仮設住宅に入りたての頃は周りに家族以外の知り合いがおらず苦労したという渡辺カツさん。その苦境をどう切り抜けたのか、語っていただきました。また、今後の予定や閖上の未来についても、お話を伺いました。


仮設住宅での生活&人間関係について

私だれも知らないから、この人どっから来たの〜?って顔で見られたのね。その時は、うーんと傷付いたんですよ。
いやあ〜こんな風に疎外されてるような感じでね、ここで暮らしていけるかしらぁ〜って思ったんです。んでも、まず自分から進んでね、あの、みんなと打ち解けなければ、やってけないなあ〜と思ってさ、それから色々な、んだ、イベントがあったでしょ?そういう時に積極的に来るようになったのね、ここに。それで、ひと、一人、二人、顔見知りになって、そいで、今は凄く楽しいです。うん。そいで、色々なイベントに私は参加して、そして、何でもやろうと思うんですよ、貪欲に。できなくてもいい、参加してー、うん、そいで、みんなと親しくなんなきゃっていう感じで、今はほとんど顔見知りになって、友達になって。
だから、とにかく私は前向きにね何にでも参加しようっていうことから始まったんです。ここへ来てから。
何やるにしても、積極的に。やろうよーやろうよーっていうような感じで。自分がそう思いしたから、そう思ってる人がいると思うのね、やっぱ。ああー一緒にこういうことやれないかなーっていうひと、中にはいると思うのね。中には、ほら、集会場に出てこない人もいるから、そういう人はなるべく声かけてー。あのー、集会場にもおいでよーっていう感じで。みんな一緒でしょここは、自分のうちみたいなもんだから。声かけながらね、みんな一緒にお茶飲もうよとかなんとかってなるべく声かけるようにしてるのよ。だから、けっこー今仲良しでね。

Q:そういうイベントに参加するのは大体女の人と聞きました。
そうそう、ほとんど女の人、男の人は二人くらいかな。

Q:男の人は…?
男の人は何してるんだろね、うちのにいるんだろね。あとほらここに、電気マッサージ機だのあるでしょ。だから、それをしにくる人は何人かいるのね。でもイベントに参加するっていうことは、ないね。ほら、イベントって言ったって、お花とか、食べることとかさ。手先のことをやろうっていうことだから、男向きではないんだろうね、やっぱりね、うん。お花をいけたり、お針をしたり、んーまあお話を聞くのは男でもできるけど、なんつーの、やっぱり、年も年なんだよね。おじいちゃんが多いのよ。だから、おらは何しなくたってていいわあーっていう人が多いのね。うーんここは、学校へ行ってる、若い人を集中して集めたところだから、子供たちはけっこういるのよ。で若いお母さんもいるのね。でもそういう人はここへ来ないでしょ。で残った人は80過ぎてる人たちとかが多いのよ。だから60代、70代っていうのは限られた人しかいないんだよね。

Q:若い世代の人は若い世代の人で…?
若い人達は忙しいんじゃない?働いてるから。

Q:そうすると、、なんていうんだろ、あまりこう、カツさん達のお年代の方たち、集会場に集まっている方たちと、その若い方々とのコミュニケーションとかっていうのは…
コミュニケーションは、若い人達は朝会えば、おはようこんにちはぐらいは言うよみんな。んで、ちっちゃい子いると、ちっちゃい子通してお母さんと話をしたり。コミュニケーションはいいと思うんだけどね、うん。
何も気取ってることないなと思ったら、気が楽になったのね。うん、だから、だっちゃねーとか言われれば、ん、だっちゃー!とかいう、返して。そういう風に自分も変えていかなくちゃ、しっ、団体生活って難しいと思うんだよねー、自分の主張ばっかり通してたってさ、うまいわけにいかないと思うのね。
自分もそう前向きになてかなきゃこれから生きていけないでしょ。後ろばっか見てらんないし。だから、もう、これから残された人生どう楽しくやってこうかなーっていう風なことしか考えてないね。うーん。ワンちゃんといる、遊んでるのもいいし、自分で好きなことやってるのもいいし、好きなもん食べるのもいいし、うーん。そうかなあ、だと思う。


閖上の今までと今後について

独特なんだよね、閖上っていう、こう、町は。親戚も多いしね。あの町っていうのは、ほら、島みたいなもんだから。うーん。そこに何千軒って建って。そこで行ったり来たり嫁に行ったり、嫁にもらったり。ほんだから、周りはみんな親戚みたいなもんなのよ、ここは。だから、下手なこと喋っと筒抜けだし、うーん、そういうとこはあるんだよね。

Q:それは、震災後、あのー、変わりましたか?
うーん、震災、震災後はー、いや、変わった人もいるだろうしー、うーん、変わった人が多いんじゃないかと思うのね、話聞いてみると。ここ、昔とは違うんだよっていう人が多いからね。昔、浜にいたときに付き合っていた人と付き合わなくなった人もいるし、なんだ、昔と違うんだからね、ここは、今は今なんだよ、っていう人も多いね。

Q:これからの閖上の町っていうのは、どんなようになっていくと思いますか?それか、なってほしいと思いますかー?
あー、うーん。今からの町はちょっと考えられないけどもー、若い人がいなくなるんじゃないかって思うのね、閖上の町は。結局、若い人はみんなここらへんにウチ建ててる人が多いし、今いる現在の人たちも閖上には帰りたくないっていう人がいっぱいなのね。うーん。だけども、帰んなくちゃなんないっていう人は、ウチも建てられない、お金もない、結局、市の世話になんないと、ウチも入れないっていう人が多いから、そういう人ばっかになるわけよ、わけでしょ。そうすっと、年寄りの町になっちゃうんだよね。
ウチはもう、孫が閖上には絶対帰りませんって言うのよ。んで、うちのママもそうなのね。あの、閖上の人じゃないから、閖上の独特の雰囲気っていうのに慣れないんだよね。わたしら年寄りだから、いい加減になれてきたけども。若い人はなれないんだよね、閖上の町のその独特の雰囲気っていうのあるから。だからもう、閖上には行かないっていうのあるのね。

Q:もし、そのー、娘さんたち、の考えとか、関係なしだったら、カツさん自身でしたら。
私だったら、別に悪くないかなって感じなのね。今はね、慣れてきちゃったから。この雰囲気にも慣れてきたし。私一人だったら、まあ、閖上に行ってもいいかなっていう気持ちもあるけども、やっぱりもう歳だしねえ、やっぱり、娘たちの世話になんなくちゃいけなくなるから、やっぱりそれはできないなって。


支援について

Q:なんか、ここの、この仮設に、年を取った人のためになんとか足りないこととか、それが、ありますか?
なんとか足りないって言ったって、やっぱりー、自分たちが助け合っていかなくちゃなんないことだからねえ。人の手借りて、どうのこうのっていうにも、まず、近所となり仲良くして、何かあった時にはー、みんなで助け合わなくちゃなんないなーって気は、っていうのはあるんだけどねえ。私は割合、年寄りの人たちに手貸してるの方かなってーいう気はするけども。頼られてるっていうこともあるのね。この人に言えばなんとかしてもらえるっていうので、私に相談する人も多いのね。あの人にああ言われたんだけど、こう言われたんだーっていう話を持ってくるわけよ。んでえ、この間もなんだかねえ、物資どっかからもらったみたいなんだなあ、年寄りの人たち、二人で、この仮設にいる人たちが。
たまたま会ったんだかなんなんだか知らないけど、んで、仙台からきた人なんだあって言うけど、なん、物資いりませんかあって言って、ああ、ありがとうございますって、置いてかれたみたいなんだけど、処分に困っているわけよね、結局は、その年寄りの人達は。んで、どんなのが来たのおって私のとこに来たから見たのね、そしたら、今時着れるようなものでないのよ。十袋ぐらい置いてったのこういうの。個人的にもらったってどうしようもないから、こういうことは自治会長さんに言って、自治会長さんから、あの、引き受けてもらえばいいのかなあーって、思ったんだけど。そう言ったんじゃ傷付くだろうなー、って思ったから。えーどうしようねえこれねえ、これ、広げてみて、着れるー?って言ったら、着れないーっていうのね、こんなの誰も貰わないっていうのね、近所の人、若い人も来たんだけども。それが、ほら、カーテンのボロだったり、こういう、なんつーの、コタツ掛けのボロボロっていうようなやつなの。なーんか、あげるゴミを置いてったみたいな感じなのね、見たら。言っちゃ悪いけどねえ。おいてってくれた人はどんな気持ちで置いてったかわかんねえよ。んで見るとね。ちっちゃい人が着る服なのか、おっきい人が着る服なのか、サイズ見ても、サイズ全部切ってあるのよ。だからあのー、サイズ見てね、100-100、120-120のサイズなら子供だしー。こう広げて見ても、ちっちゃいんだけれども、こどもが着るような服ではないのよ。ここに、こう、リボンがついてるようなやつとかさ。えっ、これはー大人が着る服なんだっちゃねーって見ても、見てもねえ、ちっちゃいのよ。Sサイズみたいなのね。Sサイズ着る人いっかしらーって感じなのね。
ありゃーだめだわなーこれなあー誰も着る人いねえーっちゃなーって言ったの。そしたら、とにかくねーそのー、シ、シミだらけだったのよね。シミだらけだったり、この襟のあたり見っと、襟が小汚いやつだったりさあ。ほんーとに一枚も着れるやつないのよ。どうするーって、貰ったのはいいけど、これー、集会場行って広げるー?って言ったっけ。だめだわなーって言うんだっけ。だから、家にじゃあ貰わないことにして、私みんなー、自分の名取市の袋に入れ替えて、ゴミに出すからねーつってさ、この間、土曜日か、5袋ばっかりとりあえず一回に出せないから、全部入れ替えて5袋ばっかり出してきたのよ、ゴミに。ゴミ見たら持ってってくれたから、よかったなーっと思ったけれど。まだ残ってるのよ、5袋ぐらい。ほんでも見ても、着れるもんでねーのよ。いやあなんか考えてみたら、いやー、悪質な人がいるなーっていう感じなのね、自分のゴミをここ置いてったんじゃねえかって思うような感じなのよ。だから下手にもらっちゃダメだなーって思って。後で、ほら、やんわりと、こういうときはこうしなくちゃだめだよーって教えよっかなーと思ったのよ。だけどそのおばあちゃんも85ぐれえのおばちゃんなのね。だから、貰えば良いと思って貰ったもんなんだけどさ(笑)そういうこともあるの、うん。

支援への感謝と、これからについて(4:22~)
今までほら、全世界の人たち、日本人ばっかりじゃなく世界の人たちに2年8ヶ月ぐらいになるのかな、色々な支援してもらってるわけですよね。だから、支援してもらって本当助かったこともあるし、自分たちがこのまんま支援ばっか受けてては前向きになれないなーっていうとこもあるのね。だから、やれることは自分たちでやってこうよーっていう、そういう気持ちだね、今はね。うーん。だから、そのー、支援物資来ねえとか、支援物なんで今になってなんで来ねえんだって言う人には言うのね。もう支援物資もらう月日じゃないよって。今、自分たちが何でもやれることやって恩返しやんなくちゃならない時期だよって言うのよ。だからあ、本当に今まで色んな人にお世話になってありがったからね、うん。


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荒木 保子さん

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震災を乗り越えて、現在、息子さんと仮設住宅で暮らしている荒木保子さん。複雑な胸の内を語ってくださいました。


震災を経験した今…

うん、人に迷惑かけないで、やっぱり、自分で自立して一生懸命生きていかなくてはないかと思ってます。みんなに迷惑はかけたくないから。これから、そうやって生きていかなくてダメなの、自分のことはじぶんでしないといけないし、独立しなくちゃないので。それは、息子に対しても、家族に対しても、そう思ってます。自分がちゃんとできるようになれば、みんなに迷惑かけないし、それ一番思ってますね、私のね。やっぱり、津波、こう、体験した人でないと、分かんないですね、これはね。だから、テレビ見てるとさあ、涙ボロボロ流れてくるんだよ、私。東日本大震災って言われると涙こぼれてきます。だってうちも流される、そのまんま、車も流されるそのまんま。いや、そのまんま流れたんですよ。でもかろうじて言えば、壁が抜けなかったので、ものは残ったのもありますけど。だから次の日から、あの、水引いてから、毎日子供たちに、4人して、2番目と3番目と夫婦して、行って持ってきてもらったの、いっぱいあるんですけど。で、選択して持ってきてくれました。それも、入れない区域ですけど、遠くからあるいて持ってきたよって言って、震災の時は、津波…2回しか行ってないんですよ、閖上。見るの嫌だから、行かないから、行かなかったんです。でも、避難所、仮設は不自由ですよね。なにからなにから不自由です。だ、これからみんなに、やっぱり手を借りて、生きていかなくてはないでしょうから。年取ってくるとね、だ、みんな助け合って、行かなくてはならないんだなーって思ってるんですけどね。一人で生きて…人間は一人で生きてられないからね。生きれないから。人の手借りなくてはならないんです。だ、いじわるしたくもないし、私何言われても黙ってるから。


仮設での大変さ

こういう仮設っていうのは大変だなっていうことを知ってもらいたいほんとはね。こういう災難にあって、こういう仮設に入って、不自由な生活だってことは、知ってもらいたいです。めったに入れない仮設だからね。こういうのはね。まさかこういうのに入れるとは思ってなかったからね。ミシミシ言って、ものすごいんですよ、夜寝れないんです。風吹くとものすごいんです、音が。床はべこべこべこべこって。トイレは寒い。寒くて、あの、夜、朝にはいる時は、トイレ開けとくんです、エアコンつけて。ずいぶん、二年三年だからは、こう隙間だらけになってるのかなあ。寒いは寒いです。だからやっぱり仮設に入った人でないとわからないです、これはねえ。早く復興決まってもどりたいですよね。


閖上の良さ

やっぱり閖上は良いですよ。海風は入るし、こういうあれでないから、海の方だから涼しいし、…いいとこですよ閖上は。でみんな戻るからって、友達も行ってくれるから、で、一緒に行こうねとは言ってたんですけど。ま、病院も何も建ってないんだら、行ったってしょうがないなとは考えたんですけど、今からの話だからもうどうなるか分からないんだよね。何年かかるか分からないですからね。


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