アーカイブ

未来

This category contains 15 posts

小野幸三さん

インタビュー一覧へ戻る 小学校の教員として働く中、様々な復興に向けた活動にも参加されている小野さん。現在の子供達の現状や今後の復興への課題などのお話を伺いました。 震災前の防災への意識 Q:先ほど日和山の石碑についてお話していただいたんですけれども、そのような小さな石碑があっても、気づかなくて今回3.11の津波について予測ができなかったってことなんですけれども、それよりも大きな、例えば慰霊碑などが建設された場合、それが今後津波について考えさせられるとか、3.11のことを次の世代に伝えていく一つの手段になるとはお考えでしょうか? 石碑ってのはある程度効果はあると思うんですがどうやら長くは続かないみたい。あのー、こう石碑があるなーって程度でその本当の意味って伝えなきゃ伝わらないですよね。伝わってなかったですね。そうゆう石碑があったってことが伝わっていなかったですね。 Q:なぜ伝わらなかったとおもいますか そうゆうこうシステムというか、よく文化化されてないとかなんとか、群馬大学の片田先生っていう方がいるんですが、文化化されてない。津波の教訓があって例えば地元の祭りとか色んな行事の中でごく当たり前にこうそうゆう文化化されるまでのレベルでその地元に浸透したものがやっぱりないと、文化化されないとやっぱり伝わらないんだっていうそうゆう意見をいう学者もいるんですね。で、そうやってその津波がかつて襲われた、石垣島の人魚の伝説とか、色んな何箇所かやっぱり指摘があって、釜石の奇跡っていうのは片田先生が、こう色々指導したところもあるんですがやっぱりある程度こう地域に根付くようなそうゆうものを作り上げないとやっぱりダメなんだと。で閖上ってのは要するに避難訓練やるったって結局集会場に避難してお茶飲んであのーおにぎりあれして、はい終わりみたいな感じでほとんど意味はなかったという、、。でその釜石の奇跡を起こしたあの地区の地域の住民も実は防災センターってのが街中にあったんですね、で今日実はテレビでやってたのを見てきたんですがえーとー…二階建てなんですね。それで結局避難した大半の人が亡くなってしまった。高台に逃げれば、小中学生のように高台に逃げれば、だったんでしょうけどその震災の前にえー、少し前に避難訓練したときもまぁ高齢者が多いので高台に逃げるって訓練をしないでまぁ簡略化してこう、街中の二階建ての集会場に逃げるっていうそうゆう訓練をしていた直後だったので避難行動をみると結局ね、山に逃げないでその、そっちに集まってしまった。そうゆうのがあったりします。 閑上の現状 本当は戻りたい人がいっぱいいるんですが、こういう風な流れを経て時間が経つとともに、もう残念ながら戻るのを断念した人がいっぱいいる。しかも、もともとローンを抱えてる。もう、家を建てたばかりだとか、ローンがもともとあるとかっていう家もいっぱいありますよね?で、さらにこう新しく立てるっていうのは、2重ローンにはなるわけですよね。で、あと、買い上げる。名取市の方で土地を買ってくれますよと。でも、ローンがあると買えないんですね。いろんなね法的な縛りもあって、結局ね戻るのを断念する人も結構増えてきているような、今、非常に少ないですよね。 本当の意味での復興 若い人が戻らない限り待ちとしての再建というか再興はなかなか厳しいですよね。その後に若い人たちがあー閖上っていいところだってたくさん住むようになれば、とは思うんですが、それはやっぱりね、世代は次の世代かその次の世代か、あるいはさらにその次の世代か、こうやっぱもっと世代が後だと思うんです。でね、あの仙台が実は太平洋戦争で仙台空襲ってのがあって、その仙台空襲があったけれど、仙台市の中心街ってのはことごとく焼け野原になったんですね。その焼け野原の状態ってのは今回の被災した閖上の街のような状態、あるいは神戸のね、あの火事で焼けた神戸の街のような状態、そのようになった仙台市の中心街もやはりね、区画整理をして今あのような繁栄が実はあるんです。だからやっぱ世代がね、本当に復興するってのは復旧、っていう使い分けは復旧と復興は違うよ、と。復旧は元通りになる。復興はさらにその時よりも盛り上がるというかね、って言われますが、本当の復興、本当の意味での復興ってのはやっぱ次の世代、あるいはその次の世代、もっと先の世代だと思う。今じゃない。今のね、私たちの世代は、私とか長沼さんの世代はもうなんとか凌ぐ、しかない。次に繋ぐしかない。そういうところだと思います。だから自分の子供や自分の孫がいるかどうかわからないけど、自分の子孫のために今何をしておけばいいのかっていうそういう視点にもう実は立ってるわけですよね。 学校での防災教育の難しさ まず現状からすると、実はさっきも言った通り、今ある小学校、今ある教室ってのはいろんな子が複雑に入ってるのね。それで、なにか防災教育、なにかする場合に実はうーんとこう配慮して気をつけないとできない。で例えば下手に津波の映像見せたら、穏やかではないというか、ものすごく傷つくというかフラッシュバックする子いますよね、PTSDを実は持ってる子供もいるし、その親も当然そうだろうし、いろんなこう事情がそれぞれあって、そういう中での防災教育は実は難しいんです。で、沿岸部ではないところの学校の防災教育ってのはもう既に始まっていて、いろんな事例が紹介されてますね。でもそれはね、まだ一般的なものであって、まぁ全部津波ってのも極端なものなんですけど、ただ、実は閖上小中学校だってほとんど手付かずですね、防災教育らしい防災教育は今何もしてないですね。できないですね。で、最初なんか藤が丘小学校に間借りしてこう入った年なんかも、プールも工事中ではあったんですが、プールは最初の年は全くなかったんです。水の流れをみたら、もしかするとフラッシュバックするかもしれない、だから最初の年はプールは全く、なかったんだよね。で、うちの息子は震災の時は閖上小学校の屋上とか3階とか、逃げてたんですが、最近あんまりしゃべらない、当時のことはしゃべらない、自分の胸にしまっていて、だから無理にしゃべらせられない。ですけど、最近ちょっと聞いた話はやっぱり津波見てたって言ってました、屋上から、流れるのを。ただ、その閖上でね、閖上保育所というのがあって、畑悦子先生っていう所長さん、今日お話来てもらうんですが、畑先生は子供たちに見せちゃいけないっていうんで、小学校に避難して屋上で見せないように子供たちの周りを職員で囲んで、見せるべきではないということで見せない、で教室に移ってからも通常保育という形でこう怖いものを見せないで楽しい雰囲気を作ってっていうのを意図的にこうそのようにやって、避難させたってのがあったりしてるんで、やっぱり見せてはいけないものも実はこう本当はあるわけで。 防災教育 それで実は今長沼さんと一緒にやってるのは、まぁ防災教育だろうと、で、防災教育でも、当然防災教育って学校が中心になって、やりますよね。文科省、教育委員会、県、市、やはり学校が中心だよね。幼稚園、保育士も多分それなりの防災やると思うんですが、今目指してるのは、市民団体ですね。防災教育を進める市民団体というのがあれば、当然学校ではやるでしょうけど、違った立場からいろんなことができるだろうっていうので、実は今毎週水曜日集まって勉強会をしていて、自分たちも勉強してるし、いろんなことを学びながら何が必要なのかどんなことができるのかっていうのを今実は模索してる。いろんなことがわかってきてます。その辺を今後は力入れて行こうかなと思ってます。 インタビュー一覧へ戻る Advertisements

久米田泉さん

インタビュー一覧へ戻る 震災後は桜団地仮設の自治会の一員として2年間務められた久米田さん。仮設での出来事や、閑上への思いをお話し頂きました。 仮設における閑上のつながり Q:そうゆうみんなでできれば一緒に移動したいっていうのは、仮設でできたつながりが強いから? そうですね。はい。 Q:そのできたつながりっていうのは震災前からのものなんですか? ものもありますね。閖上特有のそういった近所付き合いっていうのが。アットホーム的に。本当にお醤油かしてとか、これ食べてとか、これ作り切れないからこれ食べてとか。そんな感じでアットホームな関係は保てたんではないかと思います。 Q:じゃあそれは仮設に入ってからも続いていった 続いてますね。まあお醤油貸してっていうのはもう昭和の時代です。私の小さい頃のことですけど、作ったものってかいただいたりとか、あと食べきれない野菜をわけてくださったりとか、そういった関係は今でもこの仮設ではありますね。 自治会役員としての活動 役員を2年間やって、去年の春、2年間やったんですよ役員。役員をやって、いろんなコミュニケーションをとって、誰が具合悪いとか、誰がどんなお薬を飲んでるとか、誰が歩行に困難なのか全部知り尽くして、名前も覚えて対応してきた分だけそれで成長したのかなと思って。 Q:その役員の久米田さんの具体的な役割は? マルチでした。マルチです。会長がいなかったので、会長の一応総務なんですけど、物資担当だったり、週の決め事、一日一日、1か月のスケジュール表とかの組み合わせとか、時間の組み合わせとか、あとは倉庫掃除とか Q:本当にマルチですね。 あとボランティアさんが来たときに、私の目では判断できないなっていうところを、何件もくるんですよ。一日5.6件くるんですよ。こうゆう者なんですけど、何かできることはありませんかとか、こうゆうことしてあげたいんですけど何時からがいいですかとか、それを会長にお伺いしていいものなのかどうなのか、私が即決で決めていいものなのかどうなのか。あとは悪質かどうか。それを判断するのに1日中集会所にいたのが2年間だったんですね。そうゆう役員の仕事でした。 2年間を振り返って Q:そうゆういろいろな経営っていうのはそうゆう災害のトラウマを考えるよけになってるっていうか もう無我夢中でした。2年間は。住宅の方も今住んでる住民の方も2年間は無我夢中だったと思います。あたりを見るっていうよりも、自分の生活をゼロからスタートしなければならないので、それにくわしたボランティア活動だったりとかそういった支援物資の配布をいただいたりとか。 子供達のトラウマ 地震のことは一切しゃべりませんでした。 Q:思い出してほしくないものなんですか? はい。っていうのは、今でも地震がなるとリュックサック背負う子いるんですよ。そうゆうこもいるので地震のことは一切しゃべらないと。今は今、その時はその時。で会話したのが一応配慮したつもりでしたね。 Q:そうですよね。やっぱりここ震災後に生まれてる子のほうが少ないですもんね。子供に震災のことを質問されたときっていうのはどうゆう風に対応されてるんですか? 質問はなかったです。なかったです。テレビ局とかはいっぱいきまして、震災後もどうゆうふうな経路で逃げたのかとか、そんなことは聞かれましたけど私のほうでは、しゃべりはしませんでしたね、子供たちには。 Q:そうゆう子たちがそのさっき例でいったリュックをしょってしまうっていうこがいるって言ってたと思うんですけど、他にもやっぱそうゆうふうに地震の影響が心の傷になってるんだなって感じることはありますか? ありましたね。住民さんのお孫さんが地震がなるとばあちゃんここまで津波くるって毎回聞くっていう話を聞きましたね。だからそれだけまだトラウマ的に。 Q:そうゆう聞かれたときの対応として心掛けてることとか、これは言ってはいけないとか もうしゃべらないのが一番ですね。 Q:聞かれても来ないよって そうですね。大丈夫よって。大丈夫よって。 閑上の慰霊碑について Q:そしたらそれこそ慰霊碑に名前を書いてほしいとかっていう感じですかね。 うんそれは、母親とか、あの亡くなられた方とか、震災で亡くなられた方。また行方不明者の方。の名前は入れてもらえれば最高かなって。うん。名まえっつってもあの相当な数になるでしょうから久米田家とか、何家とか、何家とかって、うん。そんな風な感じで、入れてもらえれば最高かなっとは思ってますけどね。そうするといつ行ってもそこに、みんなと一緒に、みんなの供養もふくめて、母親の、と、久米田家の、あのご先祖の供養になるかなーとは思いますけどね。5 Q:慰霊碑がそういう大きなものになればなるほど、注目度っていうのが上がって、外から来る人も増えるんじゃないかなって思うんですけど、そういうのはもう、歓迎ですか。 歓迎ですね。やっぱりさっきもいったように、風化してほしくないので、うん、ほんに眠ってる方は震災で眠ってる方だったり、あるいは震災前に亡くなった方で、わかる範囲でうんあの書いてあったりっていうのを見て、ああ、こんなにたくさんの方が亡くなったんだ。ああ、こんなに荒れた土地が、あるんだとか。うんそういった面では、うん。 Q:知ってほしい。 知ってほしいですね。はい。 今後の閑上の町への希望と不安 Q:あの今、あの、どのような閖上の町をつくっていうかなんていうかこう、話されてたんですけど、今は本当に海の威嚇の閖上にはなにもないっていう状態だと思うんですけれども。これから、どのような、閖上の町にしていきたいというか。将来どういう風な町になっていけばいいなと思っていますか? 前に戻ってほしいですね。うん。前の、前の通り。ええ。今は災害公営住宅がはい,建ちました。でもスーパーもない。医者もない。ってなると、高齢者が、閖上に帰る確率が高いので、うん。若い人たちはもう家を建てたり。うん。アパート借りたりして、さい、公営、あの、仮設を出てってるんで。だいたいは。予測的には高齢者が多いんで。そこが心配ですよね。 インタビュー一覧へ戻る

長沼翔さん

インタビュー一覧へ戻る 閑上育ちの長沼翔さん。震災当時の状況や、閑上への思いをお話ししてくださいました。 震災当日の記憶 Q:九死に一生ですね。 ほんとだよね。で俺膝ぐらいまで浸かってさ、焦ったよね。怖いよ追われる恐怖。親父はさ、屋根の上にいたって話じゃん。あれはでもさ、流されてどうしようって恐怖じゃん。こっちは追われる恐怖じゃん、また違うんだよね。まじで青くなるよほんとに。俺まじで死ぬと思ったもんね。弟に生き延びたらラッキーだからねって言って。とりあえず逃げるべって言って逃げて、生き延びた。死んでらんないと思ってさ、じいちゃんばあちゃんはいいから逃げろって。まさかね、一緒にいるのにさ、見捨てられないよね。 Q:そういうことって今でも思い出したりするんですか? 結構ね、鮮明に覚えてる、記憶はね。でも不思議なことにさ、匂いとか、音って分からないんだよね。 Q:映像だけ、、 そう。映像だけワーッと残ってて、その音とか、匂いとか、景色とかは覚えてるんだけどね、そういうなんていうんだろう視覚的なものは覚えてるんだけど、他は覚えてないの全然。研ぎ澄まされてるのかな、、ワッ!って。集中してるからは分からないけど。 Q:それは弟さんとかはそういうの、、 弟はどうなんだろうそいういう話あんましたことないけど。でも弟もそうだろうって、多分必死なんだろうね。で、こう安全な場所を探してるから、目は効くんだけど、他はもうどうでもよくなってるんだと思うんだよね。そういえば車とか爆発してたりとかさ、してんのに音分からないんだよ全然。 Q:結構きっと大きな音ですよね。 うん。だろうね。家とかも壊れてるんだから、音はしてるんだと思うんだけど、全然分からない。一切記憶にないの音が。怖かったのはね、側溝ってあるじゃん?そこの蓋がさ、浮くんだよボコボコボコボコって。走ってると。あれがねえ、すごく怖かった。異常に。全部がだよ、全部がこう道路の脇にあるのが全部ボコボコって浮いてきてるんだよ。ボンボン!って浮くの。 Q:走ってる途中に? そう、それがね超怖かったんだよね。 閑上の復興 Q:あとそのやっぱ復興案というのも、今ちょっとあると思うんですけども、長沼さんは将来どちらにできたら住まわれたいと思ってますか? どこに?閖上には戻りたくない。正直、うん。戻りたくないね。 Q:それはやっぱり、津波の影響とか、 うん、もあるしね、やっぱもうさ、遅すぎるよね復興が。気持ち的にさ、やっぱ冷めるよね、そうなると、遅すぎて。 閑上に対する思い Q:そのなんか昔は閖上に住まわれてたと思うんですけど、あのー、なんか閖上に対してちょっと住みたくないと思ってるけど、なんかちょっと寂しいみたいのはありますか? それはあるよ。やっぱねえ、地元だからね。地元がないんだからね、やっぱ寂しいよね。10年ぐらいしか住んでないにしてもさ、小、中って、ずーっと暮らしていたわけだからね。やっぱ小、中って一番遊ぶ時期じゃん?その時は遊んでたからね、やっぱ今行くと悲しいよね。なんにもないんだもん。あれはね、複雑な気持ちだけどね。 Q:同級生の方もやはり、閖上に住まわれてた方とかも、他の場所に、 俺の同級生は殆どね、こっちいないから。仕事で県外とか、にいる方が多いからね。やっぱりね、話聞くと誰も戻るっていう人はいないかな。 今後の希望 Q:やはりその羅夢ちゃんとかも、これから小学生になったりとか、やっぱり将来があるわけなんですけども、なんか今後の一番の希望というかそういうのは今思いつくものとしてはありますか? あっ羅夢に対してとか? Q:とか、はい、そういうのも、、 Kとりあえずね、家だよね。まあ仮設の居心地が悪いとかそういうのでもないけど、やっぱ羅夢も流石に大きくなると狭いからね、もう少し大きいところに住めればいいかなと思うけどね。やっぱりね、ここに建ててもらえればいいんだけどね。やっぱそこだよね、まずは。ここを出て行きたいとかそういう訳じゃないけどさ、すぐここを出ていきたいとかじゃないけど、ちょっと狭くは感じてはきてるかな。 Qまずは家というか、、住む場所、、 そうだね。あととにかく進めてもらいたい。まあ俺もね、すぐに家を建てるのは無理だから、まずは復興住宅に入ることが前提だからさ。だから早く進めてもらいたいとは思うけどね。 インタビュー一覧へ戻る

木皿俊克さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上生まれ閖上育ちの木皿俊克さん。現在は東部愛島仮設の自治会で会計士をやっているそうです。 震災前の閖上について 二階だったんですが、流される家が二階だったんですけどほんとに海が見えてほんとにこう波の音が聞こえて、夏にはもう潮風が入ってきてクーラーが要らないくらい寒いくらい夏でも、そんな時もありました。 暮らしやすそうな、、 そうですね。暮らしやすかったですねー。今はある程度愛島にも慣れてこの生活にも慣れたんですけれど、でもやっぱり時たま閖上のことを思い出してあーもう朝になると散歩にでかけたり、こんな時だったら日曜日の朝頃からたぶん松林の所をぐるぐるぐるっと一時間くらいかけて散歩してたりしますね。 Q: 今思い返しても閖上という町は暮らしやすかった、、 木皿:暮らしやすかったですねー!はい。やっぱりこう愛島の東部仮設という形でこうだいたい地元の人というか、前四丁目っていうですけども、海の近く低山彫りっていう所があって低山彫りも東にあの四丁目、三丁目とひる山に五丁目、六丁目があってっていう形なんですけれども、そこの人たちの暮らしぶりっていうのは良かったっていう。遠藤会長と愛島東部仮設の遠藤会長とも町内会で一緒でしたもんですからそうゆう関係で結局地元のつながりがすごいこう深いっていうかそうゆう感じは思っていましたね。やっぱりこう暮らしやすかった。結構でかけても”おお”みたいな感じで。 Q: 出かけると顔見知りの方と、、 そうですね。挨拶とかするんで、はい、私はでも若い頃はそんなにこう町内会と仲良く付き合ったわけじゃないんで、逆に50代の頃から町内会の役員を始めていろんな人と仲良くなって、そういった面で暮らしやすい、私だけじゃなくってみんな言うんですが、コミュニティーというか、隣近所の仲が良いというそういった場所柄でしたね。 仮設での暮らし Q: 最初こちらにいらした時は仮設住宅の印象はどうでしたか? ああ!まぁえっと、良いのか分からないですけれど暮らしやすかったですね。最初に思っていた時は隣の人の声が聞こえるとか、冬寒くて夏暑いって言われてて、でもそんなことなくてすごく快適で、はい。愛島東部仮設は私としては暮らしやすいですね。一人で暮らしているんですが、暮らしやすいです。 Q: こちらにいらした時は昔からの閖上の知り合いの方はいましたか? いましたね。遠藤会長をはじめ。こちらが知らないと向こうが知っていて、向こうから声をかけられてもこっちが分からないという、そういう恥ずかしいこともありますね。 Q: そういう方がやっぱりいらっしゃると、、 気持もやっぱり違ってきますね。大河原にいた時はすごい便利というか楽だったんですがなにも自分ですることもないし、でもやっぱりちょっと寂しいっていう感じはあって、やっぱりこちらにきて俺もしょっちゅう出かけてる方だからあんまりこう付き合いとかがある方ではないんですが、心強いですね。知っている人たちがいるってことは。やっぱり昔の閖上をちょっと思い出させてくれる。すごい大事な所かなと。 Q: そうすると以前と比べてご近所さんとのつながりと言いますか、というのはあんまりこちらでも変わっていないという、、 そうですね。ちょっとこう場所が変わっただけで、コミュニティー自体は変わってないという。 Q: 現在は仮設住宅にお住いになっていて何か特に困ったこととかありますか? いや、ないですね。もうちょっと細かく言えばあるんでしょうが、まぁ暮らす分には本当にすごい暮らしやすいですね。会社も私は仙台の方にあるものですから近いんで、生活するにはもう、会社も近いんで、はい。通勤もしやすいですね。 神戸での経験 Q: 自治会に参加するにあたってその役員をするにあたって生活の変化というかありましたか? 変化というかただ楽しいですよね。自分でまぁあの去年たまたま、今年か。たまたま神戸に行く機会がありまして、冗談半分にちょっと去年の夏か秋ころに神戸に行かないかって言われて、行く行くって手を挙げて、だいたいそういう話って近くになってそういう話あったっけってなるんだけれども、具体的な話になってそろそろ神戸に行かなきゃ行けないんだけどってみたく言われてあー本当なんだって。そういう形で行かせてもらってすごい自分の今でもこう宝物みたくなっていて、それはすごい自分でも良かったなって思ってます。で、そういった声かけてくれた会長を始めみなさまに本当に感謝しているというか、それはありますね。 Q: 神戸に行かれたことでなにが一番大きかったですか? あーまず一番はあのやっぱり神戸の人たちも同じ痛みっていったらなんですが抱えているっていうのが分かりまして、私自身も阪神淡路大震災の時はこうやっぱり人ごとだったですね。で自分たちがなってこうそんなにこう聞いたりなんだりしないけども、こう1.17の阪神淡路大震災のイベントを通じて、こういろんな人から聞こえたりしてみると、未だにやっぱり揺れたりなんだりすると心配なんだよね、って歩いていてもきこえるわけですよね。あーちょっとやっぱり同じこうやっぱり痛みを抱えてるし、やっぱり忘れてはいけないし、みたいな形でやっぱり、うーん、忘れるってことがやっぱり一番悲しい。まあ、忘れていいってこともあるけども、やっぱり忘れないでいてもらいたいっていのもあるし。そういったものを、すごい感じたし。いろんな人の、人との交流っていうのもやっぱりあったし。そういっためんでは、すごいこう、まあ、うん、阪神淡路大震災の教訓もあるし、今回の東日本大震災のやつもあるし。あとやっぱ人とのつながりっていうか、そういったものをすごい感じさせてもらった従う集いだったと自分では思っています。繰り返しになりますけど、そういったのに参加できたのがやっぱり自分自身のやっぱり幸せだなって感じてるんで、そういっためんではやっぱりすごいこう、自治会に入って良かったなって感じてます。 将来やりたいこと Q: 今木皿さんご自身で、なんか希望っていうか、こうなって欲しいなっていう得に強い思いってありますか? あー。やっぱりこう。上手くは言えないんですけども、やっぱりこう前向きなかたちっていうか、そういったやっぱりいろんなかたちで。私なんかもうテニスとかやってるんで、まあ先ほど、テニスをやってきたんですけども。友達とかとまーいろいろテニスの旅行に出かけたりとか、あと、そういった生活だけじゃなくて趣味とかの部分でもやっぱりこういろんな可能性あるじゃないですか。はい。そういう例えばカラオケが好きな人はカラオケやったりとか。そういった形でこう趣味とか、サークルみたいなの作って、やっていけたらなーって思ってるんですけども。 慰霊碑 Q: 先ほど、震災に関しての記憶というか、今後に伝えていくべきだど、ということをお話されたと思うんですけども、何かそういうものを形として何か残しておきたいってそういう思いっ慰霊碑でしたりとか、、 そうですね。できれば、まあいろんな考え方があって、具体的なものを残しておいたほうがいいって人もいるし、でもなんらかの形で残してもらいたいみたいな。それが、直接、間接かは分からないですけども、そういった形で、まあどっか忘れないような形で残しておいてもらいちなっていうのはありますね。まあ、いろいろ若者にしても、建造物にしても、残したほうがいいってなんかこう、賛否両論あるんですけどねー。でもやっぱりどういう形であれ、忘れないでほしいっていうのはありますねー。 Q: 賛否両論あるっておっしゃったんですけど、こう賛成の方と賛成ではない方の、どういう意見の違いがあるんですか? やっぱりこう、あまりにも、残しておくことによって昔のことをトラウマにとらえちゃうと、それは結局マイナスのイメージになるみたいな形、で、やっぱり賛成の方にすれば、そういったやつのことでそういった大きなことがあったんだよって知らしめたいって2つありますよねー。だからねー。ある意味でそういった教訓にしたいって形のと、あとその、呼び起こすことによってトラウマの形ってそういう人たちのことを考えると、やってはいけないんだっていう2つの意見に分かれちゃいますよね。それは私はどうこう言うつもりはないですけど。 Q: 木皿さんてきには、どうお考えですか? 私的には何らかの形で残してもらいたいなーっていうのはありますね。それが直接じゃなくても、あるいはこうなんらかの形ではやっぱり残しておいてもらいたいっていうのはありますねー。 インタビュー一覧へ戻る

沼田 幸也、恵さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上生まれ閖上育ちの旦那様沼田幸也さん。奥様の恵さんは25年前に閖上へ。被災当日、旦那様は仕事で違う町へ行かれており閖上の状況をわからず、しかし奥様の恵さんは津波を経験。 昔の閖上 Q:昔地震来る前、昔の閖上がどのような町でしたか? 幸也さん:昔の閖上はやっぱ、まあ近所になるとやっぱ一つの家族みたいな感じになっちゃうんだよね。あっこあの、そのなんつうの半々ってあって同じあのなんていうんですかね、町内会でのこう隣組とかっつうのあって、まあそういう所はわげけてなく、えーなんかこう昔聞いてたのはここで醤油の貸し借りとかそういうのも隣近所でよくやってた、長屋みたいな感じだったっていう。私が生まれた頃はやっぱこう世代が変わってるのであのその、あのやっぱ町内会でなんかやるってなったら呼ぶ集まってはなんかかんか運動会にしてもお祭りにしても色々やってたんですけど・・ 恵さん:多いね行事ごとはね。子供とお年寄りが一緒になってやる行事が多いよな。普通ね子供会は子供会だけなんだけど、お祭りは子供の見越し、大人の見越しまでとか。 幸也さん:そんな地区でやるんで、だあ先。。先月か?あの閖上の方で見越し担いでたんですけど、でそん時もあの上智大学の人達何人かが来ててあのインタビューさせてくださいって。あははは。でそん時はほら、うちらの年代結構いるが、下の子紹介してやってあげたらしてやったんすけど、あいう感じだと結局子供見越しあと大人見越しってこうやって一緒に出て行ったんですけど、実際はあの、その地区だが日和山地区とか紙町地区那珂市、あとそういう同じ地区の中でみんな子供見越しが子供会が出して、あと本見越しっておれら担ぐ見越しはもう一日中練り歩くみたいな感じで。 閖上への愛着 幸也さん:最初美田園見に行ったんですよ。海の方ね 恵さん:お父さんはやっぱ海がいいって 幸也さん:海、海がいい 恵さん:海が近いのがいい Q:それは何でですか? 幸也さん:やっぱ海は涼しいっすもん。うん、あとなんか開放感あるっつうか。やっぱどっか閖上に戻りたいっつうのはあるんでしょうね。そっちのほうに。ただ市で計画してるようはかつ上げしたから安全だっていうのはちょっと納得いかないんですけど、だから俺らはもう閖上には戻らないと決めてこっち買ったんすけど。最初その美田園だと高波も来てなかったし、あの高くすれば床下までいかないんじゃないかっつう思いで言ったんだけど、息子に一言「ここ津波来てっぺや」って言われて。で、山しかないけど山でいいのかって「山の方がいいべや」って言われて、結局こっちに買ったんです。うん、俺はやっぱ山より海の方がよかったんですけど。 恵さん:やっぱしね、やっぱり海で育ってる人はどうしても海の近くっていうか、うーんあるのかな。やっぱね。うちも実家はほら海、海だもんね。 幸也さん:うん、海だよ。 恵さん:うん、ちょっと高いけど海の見える所にやっぱし再建してるから、やっぱしみんな、うーん海の近くで育った人は海、やっぱ怖いけどまあやっぱし海がいいのかな。ねえ、やっぱ違うもんね。うーん 近所付き合い Q:何か言い残したとか、これだけは知ってもらいたいということはありますか? 幸也さん:あと、やっぱこう今家族になってるけど、やっぱうちらも今その状態なんだけども、やっぱ近所付き合いは大事にしたほうがいいかもしれない。 恵さん:そうだね。 幸也さん:やっぱ聞くとああ寝たっきりで例えばうちらが仕事いって子供達だけ残して、で隣近所が付き合いがあれば「ああ、誰々仕事行ってから子供達残ってんかもしれないね」ってそれで助かった人達も結構いたて聞いてるので 恵さん:うん、閖上はね。あそこはおばあちゃんだけとか迎えにいってあげたりとか 幸也さん:閖上はそういうの結構あったって。あのしんちゃんもそうだったね。友達で前NHKとかに出てた橋本真一さんとかも結構町内会長やってたから周って非難させたとか、あそこばあちゃんしかいねえからとか 恵さん:閖上結構それが多いの。年寄りが多かったから、結局それで亡くなってる人達、おばあちゃん残ってるから迎えに行かなきゃっつって亡くなってる人達も多いから。うーん、だから隣近所はね、今思うと大事にしなきゃいけないかな。 幸也さん:だってうちもやってたもんな、付き合い。あのほれ町内会の役員やるからって繋がり始まって、まだ3年4年ぐらいだもんな。うーん、隣近所はな。やっぱ、そう長屋、古きよき時代じゃないけど、そういうのがいいんだろうね。そういうのは大事にするべきだろうね。多分都会に行ってしまうとそういうのなくなっちゃいますよね、多分。逆に警戒しちゃってね、隣との付き合いもなくなってしまうし。 インタビュー一覧へ戻る

高橋 吉也さん

インタビュー一覧へ戻る 震災前はタクシードライバーとして閖上の方々と交流を持ちながら暮らしていた高橋吉也さん。今はタクシードライバーやマイクロバスの運転手の他に内職のビーズ作りをして販売を行い復興支援にも協力しています。閖上の将来に熱く語っていただきました。 閖上での人付き合い Q. 震災前の閖上っていうのはどんな感じでしたか いやあいいとこだよ。静でね、釣りもできるし、あとその日散歩してもなんていうかこう仙台みたいな町ですよね。だけど、ささってできるしさ、車だって混まないし、いいとこなんだよ。 Q. みんなで交流とかも うん、ありますよ。うん。だから特にタクシーもしているから顔も知っているってこともあるっちゃ。それでしゃべったりさ。 Q. ご近所付き合いとかやっぱ家族のように仲良かったりするんですか? うーん近所付き合いっていうのはあまりしなかったかなあ。うーんだっておらはよそ者だから。生まれは仙台だから、仙台市だから。でそこさ45,6年なんだけど、だからあんまり交流はなかったね。 Q. それは住み始めてから40年とか経ってもあんまりなかった…? うん。だから近所とかはお茶のみとかするんだけど、あとちょっと離れたら知らないじゃないですか、やっぱり。行ったり来たりね。 仮設生活について Q. 早く仮設に行きたいっていうのは そうそうそうそう。だから今は極楽って、極楽って言えば、うん、ね、そういうもんだよ。うん。心配するわけではねえもん。ここは病院はある、買い物は楽、みんな近場にあるじゃないですか。だからここより本当にいいとないと思うよ。ただまだ、その復興して、戻ろうとしても、本来ならば戻りたくないの。なんにもない。んで、市役所だって本当になんにもいつもなくて、今までずっとずるずるべったりで、2年半経つ、過ぎたんだわ。なにやってんだっていうのが本音なのさ。 閖上の将来 Q. 今後閖上ってどんな町になっていくのかなって 閖上の町を作ろうとしているんだけれどもたぶんできないと思うよ。今後10年、20年経っても。だからそうなったならば、県の方からそれから国の方でか、ソーラーパネルを作って電気を作ったらいいんでないかと我々は思うわけよ。だからなんも住む人いないけんな。空き地でしょ。津波来たらまたなるんでしょ。そうなるんだったらソーラーでも電気を送って、国さ大きくすればそれで済むことだ。それはそれでいいんでないかと我々、俺の考えはだよ。だからみんな助かるし。あとは何、あの東道路っていうのかな?高速あるところのこっち側さこういうの丸さ作って町みたいなのを作ればみんな戻るんだから。それが東側だって埋め立て、あの、津波の来たとこさ、公営住宅だ住宅建てたって戻る人も少ないってことなの。みんな流されてね、1丁目まで、1丁目まで流されて誰も住むっていうのはあんまりないじゃないですか。でももう我々はもう死んでからもう1回来るから、いや俺たち、あんたたちの時代だから今度。そうなった場合はだからどういうふうにすっかって。そこなのよ。 インタビュー一覧へ戻る

太田 光朗さん

インタビュー一覧へ戻る 生まれも育ちも閖上の太田さん。長年様々な形で閖上に関わってきた太田さんに、お話を伺いました。 震災による人間関係の変化 でも平成、11年の、11年くらいだったかな、震災受けたの。11年の3月11日が東日本大震災だよね。それがあったために、現在は本当にあの、人間関係がみんなだめになったんだよね。ていうのは今まではこのないかいで運動会だ、地域で仮装大会だの、公民館でいっぱいあったでしょ、みんなで。15地区あったのね、上町だ、中島町だってそれでみんなで集まって運動会やったの。それがやれないのがほんとに悲しい、その時代に戻りたい本当に。戻らないからねえ。人間も楽しくやってね、そういうところですよ、あの震災前はね。 震災後のつながりの変化 変わったね、うん。つながりはもうほとんどなくなったし、今この仮設にいる人はほとんどつながりは何人かいるの、5,6人いるのね、前から役員やってた人もいるけど、あとは同じ町内会の顔見知りだけであとは話したことないからそういうのはつながりはもうずっと大変だろうね、向こうも大変だろうしさ、そういうのが多いんじゃないかな。だから結局今言ったとおりかたまりというのががでてくるわけさ。おんなじ、1号棟から17号棟まであるんだけども、1号棟の人は隣近所で仲いい、今まで話したとない人だけど隣だから仲良くなるんだ、それでここはここで仲良くやってるんだね。あとこっちはこっちでやって、、。だから仮設全体でいうまとまりはあるんでしょうけど、常にあるもの、というのは遠目でやってんだね。それは悪いことじゃないから、だからそういうのはいいんじゃないかと思うね。そういう習慣あったからね。昔は離れててもみんな固まって何かあったら寄ってたけども。 将来の不安 将来の不安はあるね。私は、年寄りは。若い人たちは未来っていうのが、娘とかは未来ってのはあるけど、76になってさ、どういうふうになんのかなっていう不安だね一番最初に。でみんなと会えなくなるってことは今まで、ほんと会わなくなるんだみんなばらばらで。だんだん足も動かんなくなったりしてさ、その不安てのはあるね。この前は、いろんな遊び行くって温泉とか行ったりしてたんだけど、そういうのこのままだと体も動かなくなるでしょ。だから俺なんかちょっと金だけは貯めとかなきゃだめだなあって病院へ行くお金とかいろろあるでしょ、今度できなくなるから日本もね。で我々もできてこなくなるわけさ。これ家賃も取られるようになると今度家賃も払わなきゃなるし医療費も高くなるでしょ?そういうの考えるとねえって思ってるんだ、お金だけ持ってればねえ。だから将来はそういう不安だね。いやとにかく悲しいし悔しいね。最初悔しいし悲しい、言ってるんだけどね。あと今後やってくことはやるしかねないから。だって、くよくよしたって、でもたまたま考えると寝られなくなるんだわ、俺あと何年くらい生きられるのかなあ、生きた後いなくなんのかなあって思うのね。子供らもちゃんとやんのかなあって今の子供はかわいそうだって思うけどね。 インタビュー一覧へ戻る

渡辺 カツさん

インタビュー一覧へ戻る 仮設住宅に入りたての頃は周りに家族以外の知り合いがおらず苦労したという渡辺カツさん。その苦境をどう切り抜けたのか、語っていただきました。また、今後の予定や閖上の未来についても、お話を伺いました。 仮設住宅での生活&人間関係について 私だれも知らないから、この人どっから来たの〜?って顔で見られたのね。その時は、うーんと傷付いたんですよ。 いやあ〜こんな風に疎外されてるような感じでね、ここで暮らしていけるかしらぁ〜って思ったんです。んでも、まず自分から進んでね、あの、みんなと打ち解けなければ、やってけないなあ〜と思ってさ、それから色々な、んだ、イベントがあったでしょ?そういう時に積極的に来るようになったのね、ここに。それで、ひと、一人、二人、顔見知りになって、そいで、今は凄く楽しいです。うん。そいで、色々なイベントに私は参加して、そして、何でもやろうと思うんですよ、貪欲に。できなくてもいい、参加してー、うん、そいで、みんなと親しくなんなきゃっていう感じで、今はほとんど顔見知りになって、友達になって。 だから、とにかく私は前向きにね何にでも参加しようっていうことから始まったんです。ここへ来てから。 何やるにしても、積極的に。やろうよーやろうよーっていうような感じで。自分がそう思いしたから、そう思ってる人がいると思うのね、やっぱ。ああー一緒にこういうことやれないかなーっていうひと、中にはいると思うのね。中には、ほら、集会場に出てこない人もいるから、そういう人はなるべく声かけてー。あのー、集会場にもおいでよーっていう感じで。みんな一緒でしょここは、自分のうちみたいなもんだから。声かけながらね、みんな一緒にお茶飲もうよとかなんとかってなるべく声かけるようにしてるのよ。だから、けっこー今仲良しでね。 Q:そういうイベントに参加するのは大体女の人と聞きました。 そうそう、ほとんど女の人、男の人は二人くらいかな。 Q:男の人は…? 男の人は何してるんだろね、うちのにいるんだろね。あとほらここに、電気マッサージ機だのあるでしょ。だから、それをしにくる人は何人かいるのね。でもイベントに参加するっていうことは、ないね。ほら、イベントって言ったって、お花とか、食べることとかさ。手先のことをやろうっていうことだから、男向きではないんだろうね、やっぱりね、うん。お花をいけたり、お針をしたり、んーまあお話を聞くのは男でもできるけど、なんつーの、やっぱり、年も年なんだよね。おじいちゃんが多いのよ。だから、おらは何しなくたってていいわあーっていう人が多いのね。うーんここは、学校へ行ってる、若い人を集中して集めたところだから、子供たちはけっこういるのよ。で若いお母さんもいるのね。でもそういう人はここへ来ないでしょ。で残った人は80過ぎてる人たちとかが多いのよ。だから60代、70代っていうのは限られた人しかいないんだよね。 Q:若い世代の人は若い世代の人で…? 若い人達は忙しいんじゃない?働いてるから。 Q:そうすると、、なんていうんだろ、あまりこう、カツさん達のお年代の方たち、集会場に集まっている方たちと、その若い方々とのコミュニケーションとかっていうのは… コミュニケーションは、若い人達は朝会えば、おはようこんにちはぐらいは言うよみんな。んで、ちっちゃい子いると、ちっちゃい子通してお母さんと話をしたり。コミュニケーションはいいと思うんだけどね、うん。 何も気取ってることないなと思ったら、気が楽になったのね。うん、だから、だっちゃねーとか言われれば、ん、だっちゃー!とかいう、返して。そういう風に自分も変えていかなくちゃ、しっ、団体生活って難しいと思うんだよねー、自分の主張ばっかり通してたってさ、うまいわけにいかないと思うのね。 自分もそう前向きになてかなきゃこれから生きていけないでしょ。後ろばっか見てらんないし。だから、もう、これから残された人生どう楽しくやってこうかなーっていう風なことしか考えてないね。うーん。ワンちゃんといる、遊んでるのもいいし、自分で好きなことやってるのもいいし、好きなもん食べるのもいいし、うーん。そうかなあ、だと思う。 閖上の今までと今後について 独特なんだよね、閖上っていう、こう、町は。親戚も多いしね。あの町っていうのは、ほら、島みたいなもんだから。うーん。そこに何千軒って建って。そこで行ったり来たり嫁に行ったり、嫁にもらったり。ほんだから、周りはみんな親戚みたいなもんなのよ、ここは。だから、下手なこと喋っと筒抜けだし、うーん、そういうとこはあるんだよね。 Q:それは、震災後、あのー、変わりましたか? うーん、震災、震災後はー、いや、変わった人もいるだろうしー、うーん、変わった人が多いんじゃないかと思うのね、話聞いてみると。ここ、昔とは違うんだよっていう人が多いからね。昔、浜にいたときに付き合っていた人と付き合わなくなった人もいるし、なんだ、昔と違うんだからね、ここは、今は今なんだよ、っていう人も多いね。 Q:これからの閖上の町っていうのは、どんなようになっていくと思いますか?それか、なってほしいと思いますかー? あー、うーん。今からの町はちょっと考えられないけどもー、若い人がいなくなるんじゃないかって思うのね、閖上の町は。結局、若い人はみんなここらへんにウチ建ててる人が多いし、今いる現在の人たちも閖上には帰りたくないっていう人がいっぱいなのね。うーん。だけども、帰んなくちゃなんないっていう人は、ウチも建てられない、お金もない、結局、市の世話になんないと、ウチも入れないっていう人が多いから、そういう人ばっかになるわけよ、わけでしょ。そうすっと、年寄りの町になっちゃうんだよね。 ウチはもう、孫が閖上には絶対帰りませんって言うのよ。んで、うちのママもそうなのね。あの、閖上の人じゃないから、閖上の独特の雰囲気っていうのに慣れないんだよね。わたしら年寄りだから、いい加減になれてきたけども。若い人はなれないんだよね、閖上の町のその独特の雰囲気っていうのあるから。だからもう、閖上には行かないっていうのあるのね。 Q:もし、そのー、娘さんたち、の考えとか、関係なしだったら、カツさん自身でしたら。 私だったら、別に悪くないかなって感じなのね。今はね、慣れてきちゃったから。この雰囲気にも慣れてきたし。私一人だったら、まあ、閖上に行ってもいいかなっていう気持ちもあるけども、やっぱりもう歳だしねえ、やっぱり、娘たちの世話になんなくちゃいけなくなるから、やっぱりそれはできないなって。 支援について Q:なんか、ここの、この仮設に、年を取った人のためになんとか足りないこととか、それが、ありますか? なんとか足りないって言ったって、やっぱりー、自分たちが助け合っていかなくちゃなんないことだからねえ。人の手借りて、どうのこうのっていうにも、まず、近所となり仲良くして、何かあった時にはー、みんなで助け合わなくちゃなんないなーって気は、っていうのはあるんだけどねえ。私は割合、年寄りの人たちに手貸してるの方かなってーいう気はするけども。頼られてるっていうこともあるのね。この人に言えばなんとかしてもらえるっていうので、私に相談する人も多いのね。あの人にああ言われたんだけど、こう言われたんだーっていう話を持ってくるわけよ。んでえ、この間もなんだかねえ、物資どっかからもらったみたいなんだなあ、年寄りの人たち、二人で、この仮設にいる人たちが。 たまたま会ったんだかなんなんだか知らないけど、んで、仙台からきた人なんだあって言うけど、なん、物資いりませんかあって言って、ああ、ありがとうございますって、置いてかれたみたいなんだけど、処分に困っているわけよね、結局は、その年寄りの人達は。んで、どんなのが来たのおって私のとこに来たから見たのね、そしたら、今時着れるようなものでないのよ。十袋ぐらい置いてったのこういうの。個人的にもらったってどうしようもないから、こういうことは自治会長さんに言って、自治会長さんから、あの、引き受けてもらえばいいのかなあーって、思ったんだけど。そう言ったんじゃ傷付くだろうなー、って思ったから。えーどうしようねえこれねえ、これ、広げてみて、着れるー?って言ったら、着れないーっていうのね、こんなの誰も貰わないっていうのね、近所の人、若い人も来たんだけども。それが、ほら、カーテンのボロだったり、こういう、なんつーの、コタツ掛けのボロボロっていうようなやつなの。なーんか、あげるゴミを置いてったみたいな感じなのね、見たら。言っちゃ悪いけどねえ。おいてってくれた人はどんな気持ちで置いてったかわかんねえよ。んで見るとね。ちっちゃい人が着る服なのか、おっきい人が着る服なのか、サイズ見ても、サイズ全部切ってあるのよ。だからあのー、サイズ見てね、100-100、120-120のサイズなら子供だしー。こう広げて見ても、ちっちゃいんだけれども、こどもが着るような服ではないのよ。ここに、こう、リボンがついてるようなやつとかさ。えっ、これはー大人が着る服なんだっちゃねーって見ても、見てもねえ、ちっちゃいのよ。Sサイズみたいなのね。Sサイズ着る人いっかしらーって感じなのね。 ありゃーだめだわなーこれなあー誰も着る人いねえーっちゃなーって言ったの。そしたら、とにかくねーそのー、シ、シミだらけだったのよね。シミだらけだったり、この襟のあたり見っと、襟が小汚いやつだったりさあ。ほんーとに一枚も着れるやつないのよ。どうするーって、貰ったのはいいけど、これー、集会場行って広げるー?って言ったっけ。だめだわなーって言うんだっけ。だから、家にじゃあ貰わないことにして、私みんなー、自分の名取市の袋に入れ替えて、ゴミに出すからねーつってさ、この間、土曜日か、5袋ばっかりとりあえず一回に出せないから、全部入れ替えて5袋ばっかり出してきたのよ、ゴミに。ゴミ見たら持ってってくれたから、よかったなーっと思ったけれど。まだ残ってるのよ、5袋ぐらい。ほんでも見ても、着れるもんでねーのよ。いやあなんか考えてみたら、いやー、悪質な人がいるなーっていう感じなのね、自分のゴミをここ置いてったんじゃねえかって思うような感じなのよ。だから下手にもらっちゃダメだなーって思って。後で、ほら、やんわりと、こういうときはこうしなくちゃだめだよーって教えよっかなーと思ったのよ。だけどそのおばあちゃんも85ぐれえのおばちゃんなのね。だから、貰えば良いと思って貰ったもんなんだけどさ(笑)そういうこともあるの、うん。 支援への感謝と、これからについて(4:22~) 今までほら、全世界の人たち、日本人ばっかりじゃなく世界の人たちに2年8ヶ月ぐらいになるのかな、色々な支援してもらってるわけですよね。だから、支援してもらって本当助かったこともあるし、自分たちがこのまんま支援ばっか受けてては前向きになれないなーっていうとこもあるのね。だから、やれることは自分たちでやってこうよーっていう、そういう気持ちだね、今はね。うーん。だから、そのー、支援物資来ねえとか、支援物なんで今になってなんで来ねえんだって言う人には言うのね。もう支援物資もらう月日じゃないよって。今、自分たちが何でもやれることやって恩返しやんなくちゃならない時期だよって言うのよ。だからあ、本当に今まで色んな人にお世話になってありがったからね、うん。 インタビュー一覧へ戻る

荒木 保子さん

インタビュー一覧へ戻る 震災を乗り越えて、現在、息子さんと仮設住宅で暮らしている荒木保子さん。複雑な胸の内を語ってくださいました。 震災を経験した今… うん、人に迷惑かけないで、やっぱり、自分で自立して一生懸命生きていかなくてはないかと思ってます。みんなに迷惑はかけたくないから。これから、そうやって生きていかなくてダメなの、自分のことはじぶんでしないといけないし、独立しなくちゃないので。それは、息子に対しても、家族に対しても、そう思ってます。自分がちゃんとできるようになれば、みんなに迷惑かけないし、それ一番思ってますね、私のね。やっぱり、津波、こう、体験した人でないと、分かんないですね、これはね。だから、テレビ見てるとさあ、涙ボロボロ流れてくるんだよ、私。東日本大震災って言われると涙こぼれてきます。だってうちも流される、そのまんま、車も流されるそのまんま。いや、そのまんま流れたんですよ。でもかろうじて言えば、壁が抜けなかったので、ものは残ったのもありますけど。だから次の日から、あの、水引いてから、毎日子供たちに、4人して、2番目と3番目と夫婦して、行って持ってきてもらったの、いっぱいあるんですけど。で、選択して持ってきてくれました。それも、入れない区域ですけど、遠くからあるいて持ってきたよって言って、震災の時は、津波…2回しか行ってないんですよ、閖上。見るの嫌だから、行かないから、行かなかったんです。でも、避難所、仮設は不自由ですよね。なにからなにから不自由です。だ、これからみんなに、やっぱり手を借りて、生きていかなくてはないでしょうから。年取ってくるとね、だ、みんな助け合って、行かなくてはならないんだなーって思ってるんですけどね。一人で生きて…人間は一人で生きてられないからね。生きれないから。人の手借りなくてはならないんです。だ、いじわるしたくもないし、私何言われても黙ってるから。 仮設での大変さ こういう仮設っていうのは大変だなっていうことを知ってもらいたいほんとはね。こういう災難にあって、こういう仮設に入って、不自由な生活だってことは、知ってもらいたいです。めったに入れない仮設だからね。こういうのはね。まさかこういうのに入れるとは思ってなかったからね。ミシミシ言って、ものすごいんですよ、夜寝れないんです。風吹くとものすごいんです、音が。床はべこべこべこべこって。トイレは寒い。寒くて、あの、夜、朝にはいる時は、トイレ開けとくんです、エアコンつけて。ずいぶん、二年三年だからは、こう隙間だらけになってるのかなあ。寒いは寒いです。だからやっぱり仮設に入った人でないとわからないです、これはねえ。早く復興決まってもどりたいですよね。 閖上の良さ やっぱり閖上は良いですよ。海風は入るし、こういうあれでないから、海の方だから涼しいし、…いいとこですよ閖上は。でみんな戻るからって、友達も行ってくれるから、で、一緒に行こうねとは言ってたんですけど。ま、病院も何も建ってないんだら、行ったってしょうがないなとは考えたんですけど、今からの話だからもうどうなるか分からないんだよね。何年かかるか分からないですからね。 インタビュー一覧へ戻る

針生 敏夫さん

インタビューページへ戻る 現在、農業のお仕事をされている針生敏夫さん。震災直後、多くの人を高台に避難させ人命を救いました。夜中に震災の悪夢を見て眠れない夜が続いたと言います。 人とのかかわりや仮設での生活 んーそういったのでストレスは溜まってないとおもうんだけどね。あー、みんなおんなじなんだもん。みんな被災してんだもん。 Q: 結構、前の方々と話しされたりとか、心強い環境ではあったんですか。 うん、そう。やっぱりほら、みんなと仲良くしなきゃいけないなあっていうそういう思いを持って接すれば、やっぱり揉め事って起きないもんですよ。 Q: その二ヶ月後に仮設に移られて、仮設住宅での生活ってどうですか。 んーと、まあ、外に出てるわけじゃないですからね。風も当たんないように。まあある程度は、ほら、話し声とかテレビの隣の音とか、しますけどね。まあ、くしゃみとか話し声は聞きますけどね、うん。それはお互い様だから、うん、仕方ないと思う。橋の下に寝てるんじゃないからね。暖房ひいてね。また、こういったとこに、住めるだけでも、ありがたいなーっとおもうですけどね。 震災から年月が経った今…未来への不安 ストレス溜まってるかはわかんないけども、んー…多少はやっぱり…あるかもしんない。仮設に暮らしてっからじゃなくて、やっぱり、先を見たときにやっぱり。先を途中..見なければいいんだけど、先を見てしまうと不安があるじゃない。うん…その日を大切に生きれば、そう感じないんだけども。どうしても..その人その人の事情があるからね。そういった時にやっぱり、不安とか感じるとやっぱりストレスも溜まるかなあ…うん。 3.11のこの震災を、絶対に忘れてはいけない んーちょっと辛い時もありますね。辛い時も..あるんですよ。でも、風化させてはね、ダメなんですけどね。やっぱり伝えていかないと。 インタビューページへ戻る

カテゴリー(地域別)

Access Counter

  • 98,773 hits
Advertisements