鈴木芳一さん

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震災を乗り越えようと新しいことを始めた鈴木芳一さん。パソコン教室に通い、ガラス細工も始めたそうです。そんな中、震災で御家族を亡くされてからの現在の心情、震災当時の話等語ってくださいました。


当時の津波の恐怖

今度あのー、せっかく仏壇を新しくしたから位牌だけでも取りさ行きたいなと思って最後に位牌取りに行ったんですよ。その時に、丁度それが来たとき、あのー海の方、あれが津波だと思わなかったのね。あのー、とにかく土煙?煙がもやもやーってなってたのはわかるんだけど、まさかあれが津波だとは思わなくて、だから三回目の津波、んー、ああ三回目に戻ったとき、丁度私津波に巻き込まれたんですよ。うん。その時は周りの人たちらが、俺が車運転してる時に戻れーって騒いだらしんだけど聞こえるわけじゃなかったし、で、対向車に逆走してくる車が一杯あったんですよ。なーんでこいつら逆走するんだろうなーって思ったんですよその時。そして、真正面みると土煙みたいなもくもくもくーってなってたんですよ、空が。そしてそれがもう津波だと思わなかったから。で、それが丁度水。。なんちゅうんだろ、寄せてくるって言ったらなんともいえない表現だけど、寄せて来たんですよ。それ、私もすっかり飲まれて。ただ私の家はワンボックスだったから、何度か高いかったからまだ良かったんだけど、車ぐるぐる回されて、もう逃げることもなんにも出来なくなったのね。そしてそん時人間の本能なんでしょうね、そん時一瞬にして私窓開けたんだってね。そして窓開けて、で窓半分ぐらい空いて止まったんですよ、もう電気系統ショートしてたから。うん、そんときの正面のガラス、全面フロントガラスありますよね、あんな音ってすごいです。ミリミリミリと音がします。あーものすごかったです。そしてその間に私と車に、車にぶつかってきた車があるんですよ何台か。あのー、軽の車とかいろんな車がぶつかってきて。あのー窓が空いて、そこから私は上手く逃げられたんですよ。ところが自分にぶつかって来た女の子、今でも忘れられないけれど、あの顔は。あの結局その子はもう巻き込まれてもう水たっぷり浸かったんだわ、軽だから小さいでしょ。車体低いから、俺のは高いっちゃ車体が。だから助けてっちゅうんだけどあの顔。窓に顔を貼り付けて。あの顔は一生多分忘れられないなと思っています。あの女の子は。あの女の子の顔と、後おばあちゃんが柱に津波で着いて助けてーって叫んでる顔は。声も顔も。多分それはたまになら、今でも夜暗くて寝れません。怖くて。今もだから明かり付けて寝てます。夜、出るのも怖いし夜。いつのまにかそういう恐怖になってしまったんだね。だから一人でいるときが一番怖いですね、いろんなこと思い出すからね。


無我夢中で逃げた

だからあん時っちゅうのは無我夢中なんだよね。うん、実際は。だからあの無我夢中で逃げたことさえ、逃げて、車から逃げるのはほんの何秒もないですよね実際は。だからいや、多分これは経験から言うんだけど。自分はあん時はもう半分死ぬんだなって思ったから。あのー車流されて、巻き込まれて、あのードア開かないとき、あー俺はここで死ぬんだなってあの時本当にそう思いました。でやっぱり、いろんなことを走馬灯に・・・よく言うよね、テレビなんかでもね、あれ経験しました。ほんっとにいろんなことを頭ん中に出てくるんだね。それも経験しました。あーこういうこと言うんだなってよくあん時はあの、よく走馬灯のように蘇るって言うようによくテレビなんかで見ますけど、あーそういう、こういうことなんだなーって。あんときは半分あー俺はここで死ぬんだなあと思いましたからね。


生かされている

Q:そういう当時の震災のことって、ずっと覚えて・・・

うんなんでしょうね、なんで覚えてるんでしょうね。記憶の断片にね。他のことは忘れても、そのことだけは忘れられないってこれはなんなんだろうなって思ってます、だから。

Q:忘れてはいけない・・・

うん、そう思ってます自分もだから。そして自分が何のために生かされているのかなって悩んでいますよ。あの当時死んでもおかしくない状況だったのに、なんで自分だけこうやって生かされてるのかな、カミさんは何をどうしろっていってるのかなとふと考える時あります。あの時、ホントに死んでもおかしくなかったですから私は。おめは、だからみんなにおめえは長生きするなって言われるけれど、長生きしたくないなとは思ってます。

Q:生かされた命・・・

そう、だから何のために生かされてるのかがちょっと・・・苦しんでます。


閖上の海

あの、なんとも言えないです、あの朝。朝起きて、窓開けたとき、朝日のきらきらしてるっちゅうのが何とも言えないですよね。うちも古い家で二階から、私二階に住んでたから窓開けると、なんっとも言えないですよ、あの情景が。あの情景私好きだなって思ってるんですよ。あの、起きて朝キラキラして、海がさ、キラキラしてるんですよね。で、そこにある船がポンポンポンとのって煙はいてる姿が何とも言えなくてね。好きな光景だなって思ってました。夜は夜であの灯台の明かり、あのピカピカ光る、あれも何とも言えない。好きでしたからね。うん、なんとなく何かと海見てるだけでも、一人でぽつらーっと海さ行くのも好きだったからね。あのー波の音?あれが好きだったからね。


橋の向こう

Q:鈴木さん自身はそういう亡くなられた方を思い出す特定の場所とかっていうのはあるんですか?ここに行ったらあの人たちを思い出すっていう・・・

いや、それはないな。ないけれど、どうゆうわけか行きたがらないんだよね。あのー、橋から向こうに。どうゆうわけか。でも良かったのは、俺だけじゃないんだね。あのやっぱりみんなそうゆう風になってる人はまたいるんだね。だからそれは安心した。あれ、俺病気かなあって思ったもん自分で、行けなくなる、行けないっていうのは。それで、聞くと、そうなんだ私も行けない行けないって言う人いるなあって思ったから、だから安心はしました。あれー俺ってなにか病気になったのかなって思ったもんほんとに。どーも車運転しててもそっから先行こうと思っても、なーんか行きづらいんだよね。だからいつもこう橋から向こうへは行ったことないです。だから日和山からは行ったことないです。どうもあの橋越えられなくているから今。

Q:その震災の経験はトラウマになって・・・

いやーだからそれはトラウマなのか俺はちょっとわかんないけどさ、自分でさ。まずいなとは思ってるんだけど、でも、いや俺だけじゃないんだなって思ったからまぁそれなりに安心はしたのね、いやこれって病気なんじゃないかってほんとに思ったから自分で。


苦労と今

うん、俺も考えてるよ。俺も考えるもん。あのーここ(仮設)へ来た頃。死にたいなーって思ってたもん。なんでこんな苦労するなら死んだ方が楽だなあって思ったもん、実際は。

Q:その考えをなくすきっかけになったのはやっぱり・・・

うん、そのパソコン教室さ行って、そして今自分のやろうとしている仕事が俺自身がやっぱりおもしろいなって思ってるからさ。うんいや、結局苦痛じゃないっちゃ。いや、それはお金になるならない別にしてね。まぁ今は実際お金になってないけど。なんとなく今やってる事自体が今楽しいからさ。面白いなあと思ってるから。ただ、その面白いからっつって、ね、おもしろさイコールお金に結びつかないからさ今とこさ。でもー、今言ったように自殺っていうのはほんとに考えたね。で、そんなことしたら死んだほうがなんぼでも楽だなーっちゅうのは思ったことはあります。こんな苦労することなら死んだ方がいいやーっていうのはね。まぁ今は隠れているのかもしれないけど、どこかに、自分の気持ちの中にね。今は仕事の事とかで今頭が目一杯だからさ。いやー今度いつ展示会すっかなーってことで今手いっぱいです。あと俺以上どういう風に汗かいたらいいんだべなーって目一杯です。売れた商品早く作りたいなとも思ってるし。買ってもらったのにまだ作ってないから。

Q:集中したいことが出来ると気持ちも明るくなりますね。

はは。いやーでもね、みんなそれなりにやっぱりみんな苦労しているんだよみんな。うん、立ち直れんでいるんだよ、今。俺だってほんとにひどかったもん。一年・・・一年間ほんとなんにもしてなかったです。ぼーっとしていました。よくまあみんなこんなそういう風に働いたりさ行けるなあって思ってました。会社なくなったこと自体がショックだったんだからさ。会社ね、30年も同じことやってきたことしか知らないっちゃ、実際。実際世の中っちゅうのはほとんど知らなかったのとおんなじだね。会社とうちの往復だけしか知らないんだから。それ以外のことを知らなくたって別に食っていけるんだから。

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中澤 芳文さん

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生まれも育ちも閖上の中澤芳文さん。3.11の震災でご家族を亡くされました。震災から月日が経った今、胸中をありのままに語ってくださいました。


「被災者」と「遺族」

あの、結局そのひどさが分かっていない、自分達は、んーなんて言うんでしょうね、被災地ですけど、被災者じゃないんですよ。

Q: 周りの人達がですか?
そうなんですよ。みんなが沿岸部じゃないんですよね。ですけど、みんな被災者なんですよ。家がちょっと傾いたとか、皿が割れたとか、皿一つ割れても被災者ですから、保険会社側から言えば、保険おりますんでね、被災者なんですよ。ですけど、私らはようは本当に被災者って言ったらおかしいですけど、うん、やっぱ遺族なんですよね。


震災の記憶

その半年くらいは、その日の2時46分、その日の2時46分、なんですよ。なるたんびに、3月11日の2時46分以降を思い出そうとする自分がいるんですよ。ですけど、その時は思い出せなかったんですよ、その後どうしたとか、どうやって娘を迎えに行ったとか、すごい思い出せなくて、ずっとその記憶を思い出すのにやっぱり半年くらいかかって、、、ただ思い出せるんですけど、すぐ、忘れようっていうもうひとつ蓋をしちゃうんですね、精神的にやっぱりあの持たなくて、そういう気持ちが落ちた時に薬を服用してもう少し落ち着かせてたんですけど、そうすると、仕事中なんですけど、やっぱり眠気が来るので、まあほとんど睡眠薬導入剤と一緒なので、仕事先に行っても行く先々でどうだったの?家族はどうだったのって聞かれるんですね。まあそれに笑い、笑えるっていうか普通に答えられるようになるまで本当に半年、まあ1年くらいかかりましたね。


被災への共感

あの支えられてるなっていう感覚が起きるのが、実はわたしはあんまりないんですよね、、。ただ支えはないんですけど、共感していただいてるのは多いです。あの、なんていうんですかね、こうやってみなさんとお話をして、うなずいていただく、理解してもらう、でこういろいろな、facebookだったりネットとかで被災地のこととか、被災地にみなさん関東から足を運んでいただいたりとかそういう情報をみると、あっ共感していただいてるな、ていうのが、思えるんですね、で、ただこう冷やかしじゃないですけど被災地見たさみたいなのはこうあったと思うんですよ。それがどんどん日を追うごとによってほんとの現状をみなさん見に来ていただいてる、てのが分かったんですね。


閖上の良さ

ほんとにねーとんでもない街ですよ。楽しすぎますもん。だから、なんていうですかね、閖上の当たり前が通じないっていうのもびっくりしましたけど。あの、ですからみなさんね、食べたことあります閖上のたこ焼き、あるじゃないですか、あれが普通だと思ってるんですから。ずっとあの、あれいくつまでだろ、高校卒業するくらいまで、あれは普通だったんですよ。で、私仙台市内の学校だったんですけど、仙台市内の学生がたこ焼き食べると、パックでぱっと出されてびっくりした、っていう記憶があるんですね。で、そのたこ焼き屋さんも、わたしも高校入る頃かなあ、もう毎日やらなくなったっていう、ですから前に食べれなくなったていう記憶があるんですね。で、年に一回神社のお祭りがあるときに食べれるくらいで。で、あとはおばあちゃん(閖上のたこ焼きを作る方)の気分だったんで。ほんとにびっくりしましたよ。たこ焼きは棒に刺さってないたこ焼きをたこ焼きと思わなくて、おかしいなーって思って。ほんとに閖上の街ん中ひとつで全部用が足りてしまう、買い物もちょっとはできますけど、一番最初にお話した通りに行くのは不便かもしれないですいろんな所に。ただ、生活するうえではなんにも困んない街だったので。ほんとね、海がそばでまあ、何年か前に海水浴場もやっともう一度できるようになった街ですから。んー私が子供の頃、小学校、中学校の頃はもう海水浴場がなかったので、うん、それでもやっぱり子供、ね、同級生とみんなで夏休みになれば閖上の海に行くんですよ。そうすると、大体同級生の一人くらいは溺れて、すんごい引き潮に会うんで、私も2、3回溺れましたけど。面白い所いっぱい、まあ、山が無いだけでほんとにいい街ですよ。ほんとに、子供の頃までは釣りをやったりとかは。あとはまあひっきりなしにいろーんな方が来て頂く街ですからね。


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相原 弘さん

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閖上で生まれ育った、相原弘さん。かつては肉屋を営んでいましたが、津波でお店が流されてしまいました。震災によって変わってしまった相原さんの暮らし、そして、閖上への想いを語ってくださいました。


交流の変化

Q:なんかこう、震災を経験したからこそ、その昔の交流が何か変わってしまったっていうのもありますか?
変わったわな。で、商店街なくなったっちゃあ、で、今再開市場でやってるの。その、そいつらその人らとの交流はねえ、全然ねえわ。
Q:その、逆に、新しく交流が始まった人とかっていますか?
この団地(仮設住宅)で。うん。ちょうどここ閖上一丁目の人が99パーセントな。だから、ほとんどみんな知り合いだっちゃ。だから、まあ助かってるっちゃあな。まるっきり知らねえではねえ。
Q:その残りの1パーセントの人っていうのは、どちらから・・・
どちら・・ってあの、福島のほう・・・。
Q:そういう方たちとは、結構交流が・・・?
は、全然、俺は、私はないね。
Q:それは、あの、交流する機会がないんですか?
そういう人は、なん、こういう、とこに来ないのね。ここは(仮設の集会所)、あの、交流の場だから。で、昨日飲み会やってさ。手ちょっと気になって。
Q:よく参加なさるんですか?
参加、ええ。参加100パーセント。参加することに意義あるもんね。
生徒:それでまたお互い団結しようっていう・・・


震災前の閖上について・相原さんの思い

Q:その、まあ、新しい環境にいらっしゃると思うんですけども、その震災前の閖上のこととかを思い出すことって多いですか?
思い出したくないな。うん。寝るの思い出すとさ、やっぱ帰る気になるわな。帰り・・・帰れないからっていうの・・・思い出したくねえわ。思い出しても、戻れるか戻れないかってのも分かんないっちゃあ今、現在。戻れんならばね、俺、もう一回やり直しましょうっていう気はあってもさ、戻れっか戻れねんのか分かんねえんだわやなあ。・・・だ、あの、道路のね、ちゃんと決まったさ、このようになりますよっていう説明があればさ、じゃあ戻りますかってのっけども、道路もなにもわけわかんねんだものさあの、戻ってもどうしようねっちゃな。ましてや・・・タイヤかわかんねえんわな。


伝えたいこと

Q:あの、これ僕たちが今日撮ったビデオを将来見る人とか、今の閖上、名取の実情を知らない人たち、名取だけじゃなくて、被災地の実情を知らない人たちに、何か伝えたいこととか、知っておいて欲しいことって・・・
うーん、こういうことは、二度と経験してもらいたくない。うん。できんならば。でも、いま日本でそっちこっちで地震が起きてっからねえ、なん、注意ってか、そういう注意だけはしてもらいたいなあ。きん・・仕事はわきまえてさ。いつ起きっか分からないんだからよお。そん直前をも見てっから。だ、やっぱあの北海道の釧路かな、あれん時もテレビ見てて、まさかと思ったよ、閖上もああなるとは思わなかったからね。だー来たから、ああ来たって、まず、まさかなあ、ほらああいう津波来るとは思わないっちゃ。だ、ああいう津波は二度と見たくないわ。まあ、経験者だから言えるんだけっども、ほんとあれはほんと、一生忘れられないね。


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