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復興案

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菊地篤志さん

インタビュー一覧へ戻る 被害にあったご家族のお話を中心にインタビューさせていただきました。現在は地元から少し離れた場所に住んでいらっしゃいます。ご職業は漁師で、菊地さんの海に対する気持ちもたくさん聞かせていただきました。 海に対する気持ち Q:震災後、海に対しての思いっていうのは変わらなかったんですか。 うーん、だ、津波、俺目の当たりにあのー、閖上のこっからずっと行ってあの誤差路、ありますよねあの、閖上を橋の手前。あの歩道橋あっとこ。あそこの家さ息子と2人で走って逃げて、助かったのね。うん、して。目の当たりに見てんのね、その津波も真正面からくっとこ。人も流れていくのも見て何人も見たし車も流れてく家も流れてく、で、本当あの、海生き地獄みたいなとこまで全部見たのね。でも、海さ、その船さの、乗るって言ったときは、乗るったときは、う、うーん、何の恐怖心もなかった。うん。だからなんていうのかな。海が悪いんでないんだよね。海は俺たちはこう、ね。生活の糧として職場であって育ててくれた海。ね。収入ほぼもたらしてくれる海なんだよね。悪いのは津波なんだよね。海は悪くねんだよね。うん、だから恐いとか、っていうのは一切なかったね。海さ出っときは。うん。 うん。いや、うーん、みんなやっぱりこう、おやも、ねえ小山君にしても古田さんにしても、恐くなかったってこう、どうでしたかっては、い、聞かれたけど、別にそんな海が悪いんじゃなく津波が悪いだけだから、うん。だ、別にこの、恐くはなかったですっては、うん。 Q:なるほど。今もこう、津波がくるんじゃないかっていう恐れとかはありますか。 いやないね。うん。来たら来た。うん。来たら来た、だね。 Q:凄い。そういう考えで。 うん。だってそんなんいつくっかわかんない、ね。わかんねえのさ神経ピリピリさせてさ、ストレス溜めながら仕事したって。うん。I want you~ なんてAKBの歌でも歌って操縦してたほうがいいね、かえって。(笑い声)フォーチュンクッキー~なんて。(笑い声)うん。だってね。千年に1度とかっていうね、そんな毎回毎回来たらね、あんなのばり来たらば日本つづ、ね、潰れてしまうっちゃ。うん。だ、少しその辺はあんまり、ね。自然だから。うん。 漁師という仕事 Q:仕事は菊地さんにとって生きがいみたいな。ものなんですか。 漁師って、全部仕事は同じなんだけど、漁師って、目に見えないもの捕りにいくっちゃね。ね。畑ならさ、大根でもキャベツでも、自分の目で、いいも悪いも判断できる。ね。あ、こいつがいいとかこれがとり頃とかなんとかってありますよね。海の場合はなんにも見えないものとってる。だ、自分の感と経験と、運と、で勝負してかなきゃいけねっていうか。ね。だからそん時のその、大量したときのその感動。うーんしてこう今、今12艘船いんだけど、やっぱりその中でのそのやっぱり水揚1番になったとか。とかっていうときにこの感動、なんていうだろうね、こう。うーん、言い表せね、この、こう、こう、っうってこう。(笑い声)いうのが、やっぱり他の仕事ではないっつーこの達成感っていうか何て言うのかなーこういうの、こう、うーん重機乗っててもダンプ乗ってても、んーそのやっぱほうゆうような、やっぱり海、陸の、そういう感覚っつーのは他の仕事では俺なんね。やっぱり海でないと。うん。 Q:こう、震災があったあとにも、やっぱりこう自分が生活をやり直していけたのはその仕事があったからだなっていうのは感じますか。 うんうん、それはあるね。うん。うん、やっぱり、でさ、あの、重機の免許とっても、最初物珍しさだから、ちっこい重機からこのおっきい重機までの、乗んのね。段々段々とさ、すとやっぱり、ああこういんだ。ああいうんだ。ああこうなんだ。こうおっきいのはこうなんだとやっぱ好奇心半分でやってからずーっといくとおおー楽しいなっていうのね。でもほいつが1か月2か月3か月となってって、そ、だいたいの重機乗り回してしまうとわ、うーん。と、この3か月くらい経ってくっと、えー何やってんだよ俺ってこう。なってくんだね仕事慣れてくっと。でまた今度大型免許取ってダンプ回して、あー砕石積んだアスファルト積んだ、いろんなの積んで、ね。どこの現場ここの現場ってーと、おおダンプってこういうのなんだ、幅で、うーんでも楽だなーとか高いとこから目線が違うなとかなんとかっていうんだけど、そのままだこう、ん、何か月か経ってくっと、何やってんだ俺ってこう、んー、なんだね、して、ん、海は、海だって赤貝いてろくが、えーと9月の1日っから翌年の6月の30日までの10か月そぐようなのね。だっと同じ仕事なんだけど、違うんだよね。うん。 震災後の仕事量 Q:その震災の前と後だったらその仕事変わったとか、何か変化とかってありましたか。 変化っていうかうーん量的なあの、水揚量。が震災でまるだいたい2年間くらいその海そのまんま、だったのね。誰も漁することもできなって、船もぜん、全船なくなったんで。だから赤貝、赤貝が、あの、とれ、とんないから増えたんだよね、いっぱい。捕れる量がはんぱでなくなって。だから、せん、ん、5月の買得になって安く前まで、だいたい5時半にこう、閖上出発してくのね。朝の5時半に出発して、出発して、だいたい6時半、ごろにあの漁業さあのゆっくり走って、みんなで10艘ず、12艘でずーっと走っていくのね。して現場さ到着してから、ほの、会長さんが今っから操業してくださいってなって。でね、あんまり捕りすぎて、市場下落すっから、40分ずつ2回しか仕事してこねえの。 うんして。少なくして希少価値を高めながら売ってきましょうっつーので。だから、早い時だと、朝、んーだいたい2時間くらいで1日の仕事終わりなのね。 でこう下世話な話だけど、ほんで、金額的には、あのーだいたい平均10万くらいとってくんだよね。 うん。うん。だから、んだそういうやっぱりこう金銭面に対しても量的なその感動ね、すっとやっぱり陸の仕事ではちょっと味わえない。うーん。 戻る、戻らない Q:仕事は菊地さんにとって生きがいみたいな。ものなんですか。 最初はね。うん、だから、うーん、当初のやつではもっと、こんな長にかないで、ふ、んと、3メーター嵩上げして、ていうような、感じだったのね。して、あの震災の時民主党だったじゃないですか。政権が。ほんときは、どこでもあのー閖上に住むっつうんだければって、換地してあげますよってなったのね。してあのー、民主党から今度自民党政権になったらば、なったとたんに今度俺のうちんとこが、規模縮小みたいな形であの、危険区域になっては。してあの換地して土地はあげないよってその、なったんで、していまだにほや。目標が立てらんねじゃないすか、ね。ああいう状態で。その、はいれば、土盛りしてその嵩上げ始まってんだっつーんでなければ、あんで、俺んちどの辺さ土地もらえんのかなとか。どのくらい、ん、土地もらったら家建てたらいいのかなとかっていう、ね、先が見えないっちゃ。なんにもなってねえから。だから、それよりもね、で50にもなってやってたってこ、いやーこんではー、と思って、なんかこう、ね。早くしにやんねえとだめだなーっつーんで。で、あーいいわと。閖上はいいわ戻んないわって。うん。でここさこう引っ越して。最初は閖上さ、引っ越して、やっぱ港も近いし、ね。から、閖上さして、閖上の人間だから閖上さ住んでっていうのはあったけど。やっぱりああいう長引いてね、市長と何考えてるかわかんないけど、ずーっと長引いてっと、やっぱり、最初はね、行きたいと思ってても、ああいう風にずーっと長くなってっと、先見えないからどうしてもね。だ、この辺にもね、閖上さもう戻んないっていうい人いっぱいいんの。閖上、まあ閖上さ住んでて、最初当初は閖上さ戻るって言ってたんだけど、あんまり長引いて先が見えないんで、いいわって。子供さん小さい人はや、学校の問題もあるし、とかいろんな問題。年寄りの人んなれば病院の問題とか。この辺だと結構近くさ行けばすぐ病院でも、ね。す、スーパーでもなんでもあっから。なんだけど、やっぱ方いう人らはもう、待ちかね、うーん、ない人はもう、うーん、全部こう、借金しても全部家建てて。うん、だ、俺の、親父の実家の人も、こど、うーん、の娘さん子供小さくて小学校に入るっていうときになって、で、閖上さ戻る、たいんだけども、学校もできない、家も建てらんない、何もできないってどうすればいいのっていうので、してあのー、もりせきの人たちって、あのーモールが、イオンモールがありますよね、まえ、ね。あそこの近くんとこさ、もう土地買って家建てたのね。だ結構同級生の人もね、だいたいこの辺さ結構いんの。もう建ててわ。うん。で閖上さね、同級生124人いてね、亡くなったのが7人くらい。津波で亡くなってんだけど。閖上さ戻るっていう人誰もいねえよ。同級生で。うん。ある先輩さっき、先輩の奥さんささっきいくんだ。こんなこと言ったらば妹の人に失礼だかもしんないけど、800人の人亡くなってんだよって。あのまじでって。 してまだ40何人も見かってないんだよって。そこんとのうちさね、嵩上げして、そこさ住めるって。んだそう思ったときにね、やっぱ、ああーんーそれもあるなー。800人の人亡くなって、命が亡くなったとこのまた40何人が見つかってないとこの、どこさいっかもわかんないとこの、ほの上さ嵩上げしました家建てましたって住めるって。な、んー先輩の奥さんはもうだめって。いかないって。して、その俺たちの年代になっとやっぱ長沼君も同じだけど、お孫さんいるような、ね。年だっちゃみんなだいたいみんなね。すとその、息子の嫁さんが、行きたくないって。うん。だ自分はいいけど、その息子の嫁さん。とか娘さんとか、が、なんでそこに行けなくちゃいけないのっていうような。のがだいたい聞くと、だいたいほういうような答えだね、みな。うん。 現地再建 うーんでそのあんまり執着してそっちゃあんまこだわる必要俺はあんまりねえんでねえかなと思う。うん。やっぱり、ね。(咳払い)命あってのね。だから。やっぱりなくなってるっつー現実だっちゃ。800人も亡くなって、あんだから。いや、ね、故郷だからそこ大切にするのはわかっけども。ね。それよりもやっぱり命あってのだから。安全性を考えて。なにも、閖上の人がその、ね。この煙草の中のここんとこさ住まいばだいたい昔っからね、だいたい顔なじみの人なんだから。ね。いいわけだから。あの、なんもこっち、な、んで、今んとこじゃなくたってこの安全性を考えて陸地のね、奥の方さそこんとこさ下、して、そこを閖上の町にしてでも、いんでないかなって、俺は思うね。うん。何が何でも閖上のあの町あそこの町って。っていうのはちょっと、うーん。俺は、くんね、国の予算とかなんとかってこういろんなのあっから、ね。ほういうことも言ってんだかなんだか俺は、俺たちはわかんないけど、でも、安全性とか、やっぱ生活してく面で、考えれば何が何でも閖上っつーんでなく、別に閖上の町をつくれば良いだけのことであって。うん。俺はほう思うね。うん。 Q:その土地に執着するんじゃなくて人に。集まれば うん。だ、人が、閖上の人が全員で移るっていう。うん。だ、集団移転じゃないけど、閖上の町をまた別なとこにつくれば、ね。すと前のように1丁目2丁目3丁目4丁目5丁目6丁目7丁目っていうのをき、し、規模縮小しながらも、やっていけば。そこんとこになれば、元の閖上だっちゃ。ね。だと思うのね。うん。何が何でも閖上のあそこの町にね。っていうのは俺ちょっと可笑しいんでねえかなと思うのね。うん。なん、執着、なんで閖上く、だって今ね、この便利な世の中で誰だって車持ってる世の中でね。ぎょ、港が近いとかなんからってね。どっからで、車で5分も歩けばどこだっていかれっちゃ今。閖上の港までこの辺、ね。東部道路の借りに、東側にして、ね、そこに町つくったって3分もあれば閖上までいくんだから港まで。うん。して利便性と、東部道路の、東でも西でもいいけど、その近くさえあれば、ちょっと行けば、スーパーでも病院でも学校でも近くさ、っんとあんのね。うん。で今んとこだって、あの更地を、ね。借りにやってほこに家建てます。学校どうすんの。病院どうすんの。スーパーどうすんのってなったら。そんなことよりも、近くんとこを、やって閖上の町をぽんとこっちのほう持ってくれば。うん、別にほんなね、悩むことでもねえんでねえかなって俺は思うのね。うん。 でましてやね、今の若い人たちなんかあの現状見てる人もいる。うん、閖上中学校と小学校さ何千人っつー人、ね。避難して、その目の当たりのほの津波っでみて。ね。人流れてく、車流れてくっていう。俺も何人も見たのね、車ん中でこう助けて助けてって流れていく。人も流れていく。あともう生き絶え絶え流れていくって。何十人も見たのね、ほういう人。そういう人も全員亡くなってるわけだ。ね。して、なん、その中で俺たった1人だけなのね、息子と2人で。1人しか助けらんねかったんだよ、1人だけ。1人だけ。だ、ほういう中で、ね、そういう現状踏まえていう中でほこんとこさまた戻るっちゅうよりも、安全性、ね、今っから生活してく人の安全性を考えたらば閖上の町をそのままぼんと持ってって。すれば。うん。すと、津波来たってここまで被害なかったから、っていうので。ああ安心なんだって、生活できっから、俺は何も現地再生、現地再生でなく、別にこうしても、俺はいいなと。うん。うん。と思うね。だからほの、現地再生もいいけどほの、こ、ね。仮設っつー、あのー、集合住宅、復興住宅建てっとこもいまだになんにもない、ない状態、更地で家もぽつぽつ建ってる状態で何にもなってない トラウマ、当時の記憶 でも、俺ね、日和山って、震災後、一回しか登ったことねえの。うん。なんか登らんなくて。してあの閖上中学校の、正面、門とこさ、あの、中学校で亡くなった人の、慰霊碑あって。キクチナナミってうちの娘の名前もあんのね。船乗ってても、あの中学校の前の通り何回も通んのね。でも、ウィンカー挙げて曲がるって、まが、まが、まが、ん、何て。曲がれないのね。うん。娘ん名前んとこさ行けねえの何だか。どうしても。だから、なんかのって、っつー時は、行ったとき。うん。はあっけど。な、なんだろ、この、ね。行けないんだよね。だ、ウィンカー挙げて曲がればね、すぐなんだけど、ほれができねえんだよね。うん。あーあるなっつうのもわかるんだけど。ごめんね本当。ほんと、うん。できねえんだよね。なんだか。ただ、ね。娘は、むす、娘がね、娘が、震災の日の夕方なんだよね、上がったのが。(咳払い)大橋の、根っこで、だいたい公民館からだから、だいたい800メートルっかくらい流さって。して夕方に、後から知ったんだけど、見つかって。虫の息でこう、ちょっと息あったみたいなんだね。して、上げらって、泥だらけで、ほのまま救急車さのしぇ、乗せ、乗って、出発する。息引き取るだったのね。娘は。っていうんだよね、見ってた人が言うのには。しておふくろは、次の日、12日の日、うちの女房が、仕事先から帰らんなくて。して、実家に泊まってわや、次の日の朝娘探しにっつって、来た時、お、俺のおふくろは中学校の、3階さいたのね。そん時は、まだ、こう、喋れる状態だったんだけど。して。うちの女房が、で、娘探しいっからって行ったときに、そのあと、携帯読んで、亡くなったんだね。だから俺は、息子と2人で、歩道橋の上から震災の日の11日の、11時半、12時ごろ、水引いたんで。そっから閖上の方しさ。で、みんなで避難して。そっから今度、車に乗せらってあの東(04:07)小学校ってとこさ、あの避難して。いったんだけど。だから、わかんねのね、現状がね。して、たまたま、俺の妹、妹、ん、で妹がばあちゃんとナナミは、公民館に避難させたからっていうから俺は安心しったのね。したら、って、や、大丈夫だべ、避難したから助かったなーと思ってたらば、後からんなって次の日なったっけ。ここも、ね。公民館はもたないから、中学校さ移動しろ。やって、ほの途中で、津波で流さったのね、俺の娘だのわ。して俺のおふくろは、先にその、ちょっと体、脳梗塞やってたもんで、あ、まともに歩けねえから、ある人が車に乗せてって中学校の門のとこまで行って、中学校の玄関の門過ぎてけん、玄関とこで津波でこう、水さぬれたのね。おふ、ていうんだよ、おふくろは。なんか、ね。うーん。亡くなってね、して二人とも亡くな、亡くなったんだけど。(咳払い)だ俺は安心してね。次の日、名取市の市役所の玄関とこで友達と、いやーどうだったのーとかって、うーん俺たち避難してたから大丈夫なんだーみたいな感じで、ほの、わかるまではね。ほの日、の何時間くらいっかだけちょっとにこにこってできたの。あと次の日っからは、後、娘、を探すことだけ。っていうの。みんな、避難所。ん。ね。避難所全部まわって、名取市。あと、名取一中だ、タテゴ小学校だ、どこかここだって、ね。(05:54)や。すと中学校。閖上中学校から、何人。バス何台でここさ避難してくんだーっつうの、だ、来る時間聞いて、してそこ乗せて。バス降ってくんの、ね。ひ、降ってくる人さ娘見ねかった、娘見ねかったって。して今度小学校からこっちさ来る、小学校の人さも今度聞くさいったりとか。して、何日目でや。9日。9日目かな。ほれも、世の中さこんな悪いことするっていうか、面白半分で情けない人もいるんだなっていうのが。ほの、娘見つかる日ね。あの、避難所で、なんにもしないでぽつんとしてしてたの。そしたら俺の携帯に、女の人から電話かかってきたのね。あの、菊地さんですよねって。はいって言ったら。あのね、七郷、仙台の、七郷中学校に、閖上中学校から避難、閖上中学校の生徒で、菊地ナナミさんっていう人避難してますよって、いたずら電話あったの。で俺なん、一週間以上もね、探して娘見っけらんない、っかった時だったのね。して遺体安置所とかも行ったりして、見てたときに、いたずらだよそいつ。して今度女房と2人で、あ居たんだっつて、で俺いくべっつって今度あのガソリンない時に、行って。したら、いやーそういう人いませんって。いたずら電話だよね。はー人これっくれ苦しんでんのさ、よーく面白半分で娘います、娘さんいますよなんていたずら電話、よーくできるなとおもって。して、その日の帰ってきて女房と2人でがっかりしていたときに、うちの親戚の子があの、名取市であのボランティアやってて。してあの、なんかね、聞いた話によると、空港の遺体安置所に、棺の番号が33番で、閖中の女の子の遺体あるんだってよって言わって。ほんで行ってみっからっていって、いって。してあの、顔見て、服装とか。確認して、して娘、あー娘だったーって。そこで見っけたんだけど。でその。人間って面白いもんで、棺の番号が、うちの母親も亡くなって、うちの母親が、棺の番号が27番だったの。して娘が33番だったのね。して、どこの避難所探してもいないと。でこれは亡くなったんだと。で遺体早く見つけなきゃいけない。して、遺体安置所さ行くのね。すと1日目にこう、並ぶっちゃね、遺体こう。遺体安置所にね。すと、自分の中さどっかで生きててほしいっていうのあるっちゃね、誰でもね。すと生きてるって勘違いしてんだよね。して、見てんだよ。おふくろの顔もなんも、娘の顔も。ずーっと開けて、あ、違う。あ、違うって。して33番も27番も見てんだよ。見てんだけど、頭ん中では、他人にしか見えねえんだよね。して、1日目にこう、50人運ばれてきた。すと、なん、繰り返しだいたい見んのね。み、見て、すと、あーここさいなかったって。んで明日運ばってくれる遺体もいっからって。すと、この最初の50人は見ないわけさわね。して、今度60人目から、次の、まだ、見るんだよね。とそいつの繰り返しなのね、ずーっと。百何十って。200、300っていうまで。してこっちのほうは、うんいなかった。あそこはいないんだから、違うとこ見っぺわって。なってくんだよね。して母親は、母親は女房が中学校で言葉かわしたっつーから、体も悪いからたぶんどっかの病院、が、どっかにあの保護されってるって、自分で解釈してんだよね。で頭ん中さわ、あーおふくろは、たぶん病院さいっから、大丈夫だと。いや娘だけなんだ探さなきゃいけねえの。してこう、顔みてんだけど、してあの、死に化粧でその、化粧して、口紅とかぬって、髪型も違ってっからわ、ぱっと見っと、似てっけど、いやーこんな髪型してねえしこんなんでないなってなんだよね。してそいつがずーっとなってって。してある時そのいたずら電話あったときに、ボランティアの親戚の子から電話きたとき、さんじゅ、33番っつったらば、1日目に見ったっちゃわね俺。って。してその27番だっちゃ今度おふくろね。しておふくろは病院さいるっつうのあっから、見てんだけど、わかんねえんだよね。して、身元確認不明では、遺体東京さ持ってっていかってわ、東京で火葬されって、お骨になってこっち帰ってきたのわね。おふくろは。で、俺の、(咳払い)次男が、友達死ん、あの、亡くなって、探しったのね。したっけほの、友達の友達も一緒に探してたんだけど、たまたまうちの息子がいなくてほのやつが遺体安置所さ行って、ほの、先に火葬なってっかもわかんねえからって、写真確認してたんだっちゃね。で写真確認してたらば、ほの友達からうちの息子さ、なんだケイちゃんのばあちゃん亡くなってたとわって。して、く、口の息子が行って、したっけ今度息子が来て。お父さん、ばあちゃん亡くなってたわーって。御骨んなってたわーってなって。あらーって。だから、あ、見えてねっつうか。ね。なってんだよね。おかしくなってんだよね頭が。で、(12:11…)娘か、ん、娘遺体、あいつして、火葬して、その後だから、1か月、40日か45日くらいっかな。ほの後くらいかな。しておふくろだってなって、して今度お骨、ね引き取って。あの、お寺さんのほうさ、ね。納骨っつか、おさ、納めてもらって、ていう風になって。だからなった人つうか、そういうなった人じゃないとわかんない、わかんないっていうか、憎しみ、ね。身内亡くなってる人でないとわかんない。たぶんなって、んん、うーん亡くなった人でないとたぶんあの、感覚っつーかああいうのたぶんわかんないと思うよねやっぱ。うん。長沼君ちの1番下のね、子供さんと同級生だったから。見てんだけど、見てんだけど他人だ。他人だって。して頭ん中さどっかで生きてるっていうのあっから、亡くなったって自分でこう、何て言うんだ。認めたくないって。だこう他人に見えてくんだねみんなね。うーんそ。うーん。ね。なんだか。うん。ほういうのはあ、あったね。 発見されたということ 諦めるわけじゃないけど、やっぱり、供養して、ね。線香着けて供養して、やることしか、できないし。それ、ね。してやんないとなーと思って。で、何て言うのかなー。うちでは2人とも見つかった。ね。して、なく、亡くなって、うちでは2人見つかったと。して、見つかんない人も、ね。最終的には40何人いるんだけっど、まだ何百人も見つかんないとき、に、あー亡くなったんだ。いいなやー。いいね。もう見っかって。って言われるのね。だけど、ああ見つかって。ああ。うん。火葬もしたし、あれだから、うちではいがったのかな。でもなんで俺、見つかったからいいねってなんで俺言われなきゃいけねんでって。なんで。な、ほんでなんで俺の娘(15:37…)亡くなんなきゃいけねかったんでって、こう。とほういうのこう、くう、ずーっと回ってんだよね。亡くなった。見つかった。ああよかったね。でも何で死ななくちゃいけねえの。なんで見つかっていいねって言わんなきゃいけえねえのってこう。うん。は、あ、うん、あったっていうかずっと思ってるね。うん。何でって。いやみ、見つかんない人にしてみれば、おや、ね。見つかって、火葬して、一周忌も終わって、とかっていうのなっけど。でま、ほの反面なんで亡くなって見っかったのさ、良かったねって。ね。心が意固地になってんだか、(笑い)ね。なんかわかんないけど。 仏壇 Q:やっぱり自分にとって凄い大切な、ものとなっているんですか。どういう、仏壇というのは菊地さんにとっては。 うーん。や、うーん。人、ん、んー。なんつうのかな。人集めてね、みんなに供養してもらう場じゃなく、やっぱり、この家の家族。ね。姿はないけど、家族、が、ここにいるっていう。やっぱり、ね。うん。だ、さい、だね、やっぱり。うん。亡くなった人やっぱりお線香つけて供養する。毎日供養する、何する。してこう、うちの家族なんだっていう。うん。だ、んのための仏壇っていうか。うんやっぱ家族だね、やっぱりね。うん。親父、おふくろ、んね、息子と娘と。いっぱい菊地家の、この家の家族っていう。うん。だね。やっぱり。 Q:家族をつなげるための凄い、役割を。 んだね。うん。 Q:どんなことをお話されていたりするんですか。仏壇の前で。 うーん。さ、震災ね、なって、娘おふくろ見っかってってなった時は。うーん。何でとかってこう、何でこうなったのーとか、もう少し上手く逃げらんなかったのかとかなんとかってこうね。無意味なことさ問いかけてみたりとか。とかあっけど。今は、今は、だね。うん。朝、仕事さ行く前に線香さつけてく時は、おはようって。だね。おはようだけかな。うん。おはよう。あとはね、こうしてくれああしてくれっつったってね、無理な質問しても、ね。困っぺから、こっちも。(笑い)うん、だ、ただ、線香つけて手合わせておはようって言って。うん。だけだね。うん。 Q:今。こう、私たちが、あの、こう、亡くなった方にできること、っていうのはどういうことだと思いますか。 亡くなった、こと、人さ、うーん。なんなんだべね。うーん。簡単でむずかしいね。(笑い)うん。やっぱり、うーん。や、うーん。くい、くい、だけ、やっぱり、最大のことはやっぱり、ね、なんでもないやっぱり供養っていう。言葉にしか、過ぎないとおもうのね。うん。やっぱり。うん。手を、手、手を合わせること、あ、っつーとかなんとかじゃなくやっぱり。うーん何て言うんだ、供養。やっぱ供養、っていうか、手、合わせるっていうか。うん。ほういう。だってね、何を望んでいいんだか、ね。うん、もう、わか、わかんないし、何をやってもらいたいか何を言ってもらいたいか。ね。どうしてもらいたいんだかっつうの。はっきり言ってわからないことだから、やっぱ漠然とっていうか、簡単っていうか、なったければやっぱり。うん。手を合わせて、手を合わせて。ね。供養してもらうっていうのが、1番なん、で、ね。うん。だ最初のころは、岸壁とか行ってても、その。いろんなとこから人来て。その、頑張ってください頑張ってくださいってこう。っんと言われんのね。だけど、言うの簡単だけど、何を、何を、な、どのように頑張ればいいのって。うん。だ、かえって頑張ってくださいって言われる言葉に対してほんと反感持つ。うん。いや、あっちはね、そういう気持ちなくて、応援してくれるっつー気持ちで頑張ってっていってんだけど。うーん全部なくした人にしてみれば、何を思ってどういうやってどのように頑張ってって言ってんのこの人って。は、うんあったね、最初のころはね。うん。鎮魂っていうか、ね。やっぱりどうしようもね、供養、供養だけしかないんだよね。うん。まあ後のこと、ね。もの、ものだければね。ものだければ買うなり借りるなりなんだりしても、補えっけど、やっぱりそれだけはね。ちょっと。うん。できない、ことだから。うん。だからやっぱり亡くなった人に対して供養してもらう。うん。だけだね。 インタビュー一覧へ戻る Advertisements

菅野 勝子さん、菅野 貞二さん

インタビュー一覧へ戻る 夫、貞二さんはもともと閖上出身で、妻、勝子さんはもともと閖上出身ではなく、お嫁に来てから30年以上住むうちに閖上が彼女のとってのふるさとになったと語っています。 集団移設 昔からの生活習慣とか、お祭りだったりとか、イベントあるじゃないですか、地域地域のお正月、お盆ってこれからもやっていこうと思うし、どこに行ってもね。だからあそこの現地復興じゃなくて、せめてみんなが言ってるように、東部道路よりも西側にいっぱい田んぼがあるんだから、そこに閖上の町を本当、そんなね、そんな学識経験者や市役所の人が言うように、商店街だとか、医療施設だとかそんな学校なんかつくったって、学校にいく子供達のいる親はだれも帰りませんから。家の息子からはじめ、子供達、あんな思いして小学校の屋上ににげたじゃないですか、あんな恐ろしい事経験してるのに、また閖上に立派な学校作りますからなんて言ったって、誰も帰りませんよ、小学生いる子供達は。 震災前の閖上は人情味とかいっぱいあって、私は嫁に来て三十年経つんですけど、実家で生活した歳月よりも、嫁にきてからの方が長くて、本当にいま自分ふるさとって言ったら実家よりも閖上なんですよね。 そうですね、私たちはありました。親戚もすぐ近くにいっぱい住んでいましたから、あの昔のようにね醤油とかなかったらちょっと貸てとか磯切れたからかしてとか米きれたから貸してとか、ちょっと頂戴ぐらいなかんじで気軽に言える感じはありました。銀行なんかも閉まったら今はコンビニなんかでお金おろせるけども、今お金ないかなちょっと貸してとかそういうなんて言うのかな、昔の長屋みたいなね、繋がりはありました。今もハーモニカ長屋なんですよ。ドレミファソラシド、八世帯が一つになって、ハーモニカ長屋なんですよね今、でもうち息子と息子達の夫婦と私と三世帯借りて入ってますから、その中で一号棟だからあんまり気を使わないんですけど、大きい声だしたりどんどんって響くからね、気使いますよね、私たちは端っこだからいいですけど、孫とかまだ小さいから迷惑かけてないかなとか、気使いますけど人との繋がりはみんないいね、おばあちゃんとか、隣の奥さんとか、人間関係ではあんまり。 食べ物はね、家の避難所に行くと名取市内の避難所で自炊してた避難所なんですよ。他のは自衛隊の人のが作ってたのを食べてたんです。 私たちは、班を、とにかく、震災後一週間まで班を作ったんです。一班から何班まであったんだろう。班を作って、三班までは食事当番、四班からはお掃除たくの、トイレ掃除、あとはカーテンあけとか、交代でやってたんですよ。だから朝もう五時半に起きて、はんから一人ずつでて保健室に行って、ご飯で多いときに一日いっとさんじょう、一升の十三倍こんな釜で三つ炊くの、こんなでっかい釜で。みそ汁もおんなじおっきい鍋で三つ作って、あとおかず何したらいいか、支援物資が最初はなかったんだけど、野菜とか飲み物とか缶詰とか来て、自分で頑張って考えて、マヨネーズなんかもあったからね、素麺ゆでて、色んなもの入れて、鍋作ったりとか、そしてそれを男の人呼んで作ったり、体育館に分けてテーブル並べて、五時ですから皆さん並んでください。子供さんから、子供さん、お年寄りって感じで並んでもらって配るんですよ。そうすると大人でも子供でもお年寄りでもお皿を持ってくるんですよ。洗えないからラップを引いて、おかずと漬け物とみそ汁とあと自分でちゃんともってきてそれもってきて自分でちゃんと分けてもらう。もうね、いっぱいとにかく分けてあげる。普通だったらこんな一膳ちゃわんに一杯くらいしか食べないでしょ?それがね、二膳以上のご飯をよそって、それを持って帰る訳じゃないですか。で、それを私たちがみんなに分け与えるの。まだ残ってますからどうぞってマイクで言うんですよ。おかずも残っています、ご飯も残ってますおかわりしたい人どうぞっていうと、わーっと来るの。自分たちのこんな大量のご飯をわーって食べちゃっておかわりを待ってるの。おかわりっていうと一斉にもらいに行ってまた食べるの。 インタビュー一覧へ戻る

遠藤 一雄さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上で生まれ育った遠藤一雄さん。定年退職後も、閖上4丁目で暮らしていましたが、津波により家が流されてしまいました。現在では愛島東部仮設住宅の会長を務め、遠藤さん自身も愛島東部仮設で暮らしてます。震災後の仮設住宅での生活を中心に、会長として見てきたこと、感じてきたことなど様々な経験を話してくださいました。 区間わけと行政 Q. 小学校中学校は地域によって分けられていますか? みんな一緒ですよ、あの、おおまがりっていうところがあるんですけども、ちょうどここから閖上の中間ぐらいに、そこまで閖上の区間なんです、学区みんないっしょです。 Q. どこからが閖上でどこからが閖上じゃないのか、ひとそれぞれ考え方が違うように伺いました。 そうそう、あのね、閖上のね、いまでいう、小学校あるね、ひいらぎの、あの辺までが、閖上区間なんです、名前はね。そしてそこから西側は丘区っていうんです。「おか」ね、普通の「おか」、丘区っていって、だけども学区はみんな一緒で、あの町内の運動会とかある時はみんな一緒ですから。 Q. 小学校はひとつですか? ひとつ、中学校も一つ、ええ Q. 丘区の方々も閖上に含まれますか? そうですよ、うん、ただこうほんとの閖上っていう地名がついてるとこが閖上っていう感じだけども、その丘区ってとこも閖上地区さ入ってますから。だから今市長さんなんかよく現地再建でやってるっちゃね、やってるけども、丘区の方さ みんな住みたいってみんないうの現地再建より、こっちは閖上じゃなくて丘区っていうんだけど、結局みんないっしょなんだよね。結局みんなお互いに学校も小学校も中学校も卒業しておっきくなっても同級生だなんだってやってるんだから、それを市長さんわかったらうまくいくんだけどね本当は。こっちは閖上じゃない、こっちは閖上だってさ、差別したらよくないと思うんだな、そういうことやってるから進まないんだな Q. 地名だけでみていて、 そそそ、そういうこと。 Q. 人間の関わり方に目を向けていないということなんでしょうか? そそ、まぁ今閖上のことやってからだけども、こっちの人は差別だよね。普通はさ、名前から言ったら、同じ名前で暮らしてるんだからさ、だからそういうことやってたら復興もなかなかままならないんじゃないかなって、うん、行政の考えと違うから、うん。反発力がすごいんですよ。だから今このままで行かされて、工事に着工したとなっても、行く人がいなければまた見直し、するようになっから、市長さんも大変でないかな。 Q. どういった方が行政に関わっているんですか? 私たちはその名取市閖上地区の住民さんの意向をこっちを住みたい人の意向を、その人らの意見を市やなんなりに提出してやって、署名とかもやってましたよ。 Q. 受け入れてくれる感じではないのでしょうか? あまりないね。市長がそのこうあんまり…かもしれないけど、普通なら市長さんこう長い時間で対応するでしょ、5分3分くらいでぱっと退出するんだもん、話にならん、うちら今こういうことやっても、宮城県会議員さんとか、俺ら一緒になって担当の西村さんとか今年の6月からな、復興庁にいってきたんです、西村さんと県会議員さんと私と、復興庁の大臣とお話ししてきたんです、でもあっちでも頑張ってくれって…てことで復興中の中でね、普通はすぐ帰るんだけどもね1時間以上もお茶のみしながら、大臣と復興大臣と。 Q. お気持伝えたんですか? 伝えましたよ。それで、それが県の審議員会に挙がったわけさ。ほら、西側さもってくとか、あと今計画どの場所をさ、災害公営住宅っていうのがたつんだってね、その公営住宅お寺の跡地さ建てたりっていう計画なのさ、誰もお寺の跡地にばっとたててもらって住めないですよね。まぁ先祖さんの頭こう踏みつけらってるようでねお前ら何やってんだっていわれそうだっちゃさ。で最初「建てる建てる」ってがんばってて、その私も市議会で代表で喋って、知事さんのいるところでさ。したら知事さん怒ってさ、市長と答弁することになったら、そうしたら建てませんってその場で言うんだよ。住民はその日まで建てるって思ってんだから、それで判断してんだから、そしたら今度建てねーっつんだからさ。じょうだんじゃねーってさ、その時のがれればいいっていう感じで話すんだよね。 ボランティアと自立 んー、やっぱりみんなもね、震災になって、ここにきたはいいは、人からもらうようなことではだめだと。ここから5年ないしね、出てきた場合自立心がなくなるから、まぁ出て行っても自立できるようにみんなでがんばるべって、ことでみんなでやってる。だからうちにほかの仮設みたいにボランティアさんにこれやってくれってさ、絶対うち言わないです。うん、だけども一度ねこの自治会で年に3回大きな祭りあるんです、3月4月になったら花見とかね、夏祭りとか、あと10月になったら芋煮会とか、それでここの自治会でみんないろんなことやって、ここだけだとあれだからって、たとえば上智大学さんに手伝ってもらってるから、その人さ声かけて招待しましょう、招待しながらやってるんです。うん、逆に。まぁお返しっつったらおかしいけど、俺たちにできること、ならやりたい。世話なった人に声かけて、だからNPOやってもらってる人とか文化大学とかね、なにもいらないからとにかく食べに来てくれって、うん。 閖上に戻りたいか まぁね、俺たちも先祖さんたちからの代でずっと閖上にいるから閖上に戻りたい、でも、さっきもゆったけど丘区も閖上だから、その災害危険区域のちょっと西側っていうのもあるわけだっちゃ。だからそのへんでやっぱりやらねーと。ここからはもう閖上から遠くに行くっていうのは考えられねーかな。なるべく海の近くにはいねーとって思ってるけど。 遺体安置所での経験 そしたらだいぶ人亡くなってるってことで遺体安置所もうけたのさ。そして、二日目から私2か月半ぐらいその遺体安置所さ確認にいたんです、町内の人達もいるからね。で全部、最寄りの人みんな見つかって、連絡して引き取ってもらって、2か月半やってた。 Q. それは自分からやり始めたのですか? そう、で、もうほれ、知人の弟だのいないだの、で、弟さんがね、ちょうど15日してぐらいあがってさ、俺が最初に見つけて、…あそこの息子さんだけ見つからなかったんだ、やっぱりお父さんより早く見つかってたのね。ところがね遺体がこっから半分しかなかったんです。それで見せられなかったから、DNAで4日ぐらいしてからわかったけども、で、私140体か150体ぐらいみんなに引き渡したんだ。分かってる人…もうあんな時は、ああいう人間見たりすっと思い出すでしょ。夜なんか。1日2日目ぐらいは、「あ、こんな人いたんだ」ってぐらいで、もうあとは日にち経ってくるとみんな一緒の顔してるよ。…だからなんともなくとは言わないけど、見つけても助けてあげれなくて悪かったってぐらいで引き渡ししたけどね。そういうことなんです。だからやっぱりね、だから今こんなことして、会長やって、みんなの協力もらってってことは、俺は生かされたから少しでもみんなのためにやらないとってやってるけど。まぁみんな長沼君とか役員さんたちがいいからね、みんなすぐに声かけると協力してくれるからそれだけがありがたいです。 Q. 震災を経験して人との協力性が本当に大事だなって、実感しました? あー、思いますね、やっぱり何もない平和な土地は結局声かけたりなんだりしてやってけるけども、やっぱりなくなったら協力がないとやっていけないさ。個人個人ではね。 ボランティアとメディア やっぱりやってくれてる人は一刻も早く復興してもらいっていう感じもあるんでねーの。やっぱりいろんな形で聞くけど、よく日和山に花植えるとかさ、でも結局花植えてもさ、正直な話、水やりにも来ないでしょ、植えるだけで、だれが水やるか。で、一回植えれば次に来ないでしょ、うん、そういうのまぁボランティアはボランティアなんだけどさ、ふつうやるならああやってSTEPさんみたいに、寒くても毎日3人でも5人でもね、やってるっていう人のほうがほんとにああいうひとをよく感謝しないと。んださ、花植えるのは一時的ださ、であと来ないんだよ。それでまた1年くらいしてから例えば花がなかったから花植えるかとかさ、それで植えっぱなしで誰があそこで水やりなんかするのね、しないでしょ。 Q. 単発なんですね。 そうそう、その単発的なことをやってんだ、ってことよりもさ、もう少しやり方があるさね。単発でなくてさ、やっぱりSTEPさんみたいにね、ああいう風に毎日とはいわねーけどさ、例えば2か月に1っペンとかね。あと植えた花どうなってっぺってじゃぁ水やってって、てくる人もいるっちゃね。 Q. 長期的なボランティアということですか? そうそう、まぁ水かけなんかは5人や3人ぐらいでいいんだから。うんそんなに団体で花植えにさ来ることはないんだから。とは思う。 んー、メディア、の方でも、それをやっぱりある程度伝えるんだから、伝えるに対して、例えばこの人達がこれをやってくれたからとか、そういうことばっかりでなく、あたりの住民とか、だからおれが今言ったようにさ、ね、一回植えたらそれでいいって問題でないということば取り上げて言ってもらえれば、ある程度その団体でもメディアでぽっと流されれば、これはこれではまずいのかなって考えると思うのね。 Q. 最初から最後までやり切れてない部分があるんですね。 うん、そうなんだよね。まぁ俺だけの考えだかなんだかわかんないけど。それは見てたら、長いこと見てたら分かると思いますよ。 Q. … Continue reading

鈴木 幸恵さん

インタビュー一覧へ戻る 仙台市出身、7年前に閖上に嫁ぎ、震災で災難にあわれた鈴木幸恵さん。震災後は語り部として彼女の経験を語ってくださいました。 震災前の閖上 この閖上っていうのは、昔からの人が多いんですよね、やっぱり。先祖代々っていうんでしょうかね。それでもう本当にこう小さい街並みだから、この人はこの人の従弟で、この人はこの人の兄弟でっていうので、もう本当に周りの人たちも知ってるんだよね。だから、ああ、この人はこの人のね、家族の人だなっていうことで、そういう個人的なねっていうかもしれないんだけれどね。あのプライベートでしょっていう人もいるんだけれども、そういうこう違和感もなくて、ただ生活できるっていう感じだね。こう道路歩いてても、あのどこに行くのとかってね。やっぱり誰となしにこう声をかけてくれるっていうんでしょうかね。温かい町って言ったらおかしいでしょうけども、やっぱりそういう町なんだよね、このへんは。 被災地に建ててあるテントに来る理由 あんね、やっぱり私とおんなじような境遇の人っていっぱいいるでしょ。そうすると、あの反比例するっていうのかしら。自分の家があったところ、行ってみたいような、反対におっかないような、行きたくないような。そういう気持ちがいっぱいありますよね。ここにいることで、おんなじ境遇の人たちがいっぱいここ通るでしょ。そうすると何気なしにこう何してるのってこういってくると、やっぱりああ、うちでもね、こうなんだよとかさ、私もねこうだったんだよっていうことで、こうあの、閖上の人とこう話し合える、お話ができる。だ、同じこう家をなくしたり、身内を亡くしたりっていうのはあるけども、いや、私も頑張ってっから、あんたも頑張って。またね、来週来るからね、とか。またこっちに来たらね、また寄ってねってその声掛けによって、やっぱり毎日毎日、ああ、自分なりの気持ちなんだけど、来週もまた行ってみようとか、あんじゃ、土曜日日曜日あそこに行ったら寄ってみようっていうことで、やっぱりその一言二言、言葉を交わすことによって気持ちっていうのはなんとなく違いますよね。そうすると自然と力が出てくるっていうんでしょうかね。励みになるっていうのかな。 復興案について 早くなんつうのかな、被災してる人の気持ちっていうのをね、汲み取ってほしいんだよね。そういうことによってこう力づけられる。あんじゃあ、あと来年、再来年、や、これから5年後でこうなるんだなって思うと、何となく違うでしょ、気持ち的に。まあ、私ばっかりではないけど、ほかの人たちもそうだけども、でも普通の人、そうでしょ、やっぱり。あ、ね、あと2年たつと学校卒業するんだとか。あ、あと、ね、1年たつと、どっかに仕事するんだ、就職するんだって思うと、なんとなく気持ち的に違うね、何にもなってないことには、メリハリがないし、夢や希望も何にも持ってないよね、けりってね。 語り部を始めるきっかけ やっぱり語り部するとさっきね、涙が流れてくるから、あんまり自分の体験ていうのはあれ、言いたくないし、でもやっぱりこういうふうになんないように、みんあそれぞれね、家族を大切にして、地震、津波にとにかく逃げてください。それだけは私は伝えていきたいなって思いました。だから語り部やってくださいっていったときに、少し戸惑いはありました。私もいやだなってね、なんで今更こういうことを、自分のことをって思うこともあったんだけど。けどそういうことではない。やっぱり将来に向かって、ね。テレビなんかでも地震があって、津波があって、こういう高い津波が東京のほうでもありますよって言ってるんだけども。いやそれはね、みんなにね、体験してほしくないから、命だけは守ってくださいっていうことでそれをみんなに伝えたいなって思って私はそういうのになりました。 インタビュー一覧へ戻る

大貫 満喜子さん

インタビュー一覧へ戻る 生まれも育ちも閖上だが、一度そこを離れた大貫満喜子さん。戻ろうと考えていた時に震災が。彼女が閖上に込める思いとは。 閖上の好きところ なんだろうね。全部ひっくるめてなんじゃない?人も、あの、場所も。くうきも。風も。全部。だ、これがっていうのはないね。全部総合的に好き、うん。嫌いなんだけど好き。わかるかな。あのね田舎町って最初に言ったじゃない。田舎だからこそ人間関係もちょっと複雑なとこもあったりするわけ。 これからの復興について まあね、元に戻んのは当然無理なんだからさ。やっぱ1から作るわけでしょ。それはみんな楽しみながらやればいいのにね。結局昔だってそれなんでしょ。閖上って昔から本当に古い歴史はあるんだけど、古いものは何にもないのさ。つまり何回も津波の被害にあってるんでしょ、おそらくは。当然のことながらだけど。てことはさ、流される度に作り直してるわけじゃん。だったらもう一回作ればいいんじゃない?それもそんな色んなしがらみなくさ。今一番問題になってるのは、名取市は現地復興とかいって、だから話矛盾すると思って聞いてると思うんだよね、きっと。なんで私が名取市に対して敵意をもってるかっていうところ。現地復興ならそれでいいじゃないかって思うかもしれないんだけど、結局なに、行政側のほうでこうしろみたいにして作られたものの中に戻っていくていう感覚はどうなのかなって思う。もちろんほら、一人ひとりで難しいのはわかってるし、行政はそのためにあるから、まずはレールを敷いてそこに住民の戻るっていう。それはわかるんだけど、なんか強制連行みたいなやり方での現地再建案っていうのはちょっといただけないんでないかなって。みんなが自然に戻りたいとか、戻るっていうふうな、風に作ってくれて、それで初めてみんなで楽しみながらね、いい町作りができると私は思うんだけれども。そうでないじゃない。ここじゃなきゃいけないとか、それも嫌がってる人まで無理強いするような感じで戻そうとするでしょ。そういう意味ではいい町なんか作れないもんね。だから楽しくね、本当は明るく、前向きに、もう一回一からやればいいだよね、別にね。そんなかさ上げ、まあかさ上げは安全性っていう意味では必要なのかもしれないけど、そこまで行儀よくしなくていい。逃げるとこさえ作ってくれればいいと思うし。そんな大きい商店街、なんだか今日も見たけど、なんかね。円形のもの、すごい商店街作りますって。そんなもの最初に張り切って何なのって。そうでないんでないのって。住みたいなって、戻りたいなって思わせるようにしてくれなきゃね。そういう風になんないといけないし。 生きていくうえで一番大切なこと なんでしょうね。うん。まあつながりとかじゃないかな。うん。ちょっとね色々話しながら、さっきのほらあんまり良い事なかったみたいなね、あったけど、そういえば一つあったなっての思い出したの。それがやっぱつながりかな。それこそ震災がなければ出会わなかった人たちもいっぱいいるわけよ。閖上の人も含めて、ボランティアの人も含めて、支援してくれる人も含めてね、こういうことがなければ絶対一生会わなかっただろうっていう人いっぱいいて、そういう人たちの顔が浮かんだのね。そういえばそうだったと。今でもずっとねいい付き合いをさせてもらってる方もいる。全然目立たないんだけどね、そういう人たちこそでも、だからもっとポッと出てくれればいいのにさ。本当に継続してやってくれる人たちってね、あの、それこそマスコミとかに出てこないのよ。陰でひっそりとやる、地道にやるからこそ継続するんだろうしね。そういう人たちはありがたいし、今も繋がってますね。そんなもんぐらいすか。 閖上の復興が遅れていることについて 閖上は住民が悪いから復興遅れてんだみたいなさ、見聞きするの。見たくはないけどやっぱ気になるから調べるそうなんね。決してそうではない、決してそうでは ないっていうことを知ってほしい。みんながみんが反目しあってるわけじゃない。みんな町が大好きで何とかしたいって思いがあるがゆえに色んな議論してるだ けで、そこの合意形成をするための調整役が本当は行政であるべきなのにそれをしようとしなかったからここまで来ちゃっただけの話で、住民がみんながみんな いがみ合ってるわけじゃない。本当はみんな閖上が好きで良くしたいからやってるだけだってこと知ってほしいかな。ぜひおいでませ閖上、みたいな感じ。 メッセージ まずはやっぱりぜひ来てほしいと。まずは現地に来てくださいと。どういう町なのか想像してね、車でこう通り過ぎるんじゃなくて、歩いてほしいの、そこにどれ だけの人が住んでどういう町だったんかって想像しながらぜひ足を運んでほしいなと思うし。まあね、みんなが楽しく暮らせるような町づくりになるように見 守ってほしいなと。 インタビュー一覧へ戻る

三浦 克美さん

インタビュー一覧へ戻る 生まれも育ちも閖上の三浦克美さん。彼女が見る震災前、震災後、これからの閖上とは。 これからの閖上の復興 そうね、もともと、今閖上が現地再建っていうことで決まってしまいましたけれども、私としては現地再建ではなく、集団移転。集団移転とかもうちょっと内陸のほうに新たな町を作ってもらえればなって思ってたんですけども、そうではなくなってしまったので、実はうちはあの別のところに家を建ててるところで、名取市内のところに家を建ててるところなんですね。ちょっと今色々な噂を聞いてると本当に閖上にどのくらいの人が戻って、どういう町になるのかっていうのはちょっとまだ想像はできないんですけれども。でも実際に私の両親とかは閖上に戻りたいっていうことで。っていうので現地に戻るというよりもやっぱりそのみんなと一緒にいたいっていうのが気持ちが強いみたいで、みんなと一緒だと別に閖上でなくてもどこでも。 被災後の心境 被災者ではあるんだけれども引きずったり思いつめたりしないように早く普段の生活というか前向きに生きてってほしいなって思って。自分が落ち込んだり暗くなっちゃいけないっていう気持ちをもって、そういう気持ちをずっと持って生活してきましたねとか、そういうことをしてたんですけど、いつまでも被災者っていう形で甘えてちゃいけないと思ったし、そういう目で見られるのが嫌だったので、なるべく本当に自分のなかでは、聞かれれば話はしますけども、自分はこうだったて。自分から人に弱みというか同情というかなんかそういうのあんまり受けたくないなって思っていたので、なるべくこう普通に、普通に生活できるようにっていうことで生活してきましたね。 メッセージ やっぱりね被災者本人はずっと忘れないとしても、それに関係なかった方っていういのは本当にどんどん忘れていくと思うんですよね。ですから、こういうことがあったということをずっと忘れないでいてほしいなと。やっぱり今とかってね、色々防災意識がすごい高まって、首都圏の直下型地震とかいいますもんね、話になってますけど、やっぱりそういうこととかも大事だと思うので、一部のことと考えて準備するなり、家族で話し合ったり、そういったこととかも将来的にも本当に自分のことのように考えていてほしいなと思います。 インタビュー一覧へ戻る

相原 弘さん

インタビュー一覧へ戻る 閖上で生まれ育った、相原弘さん。かつては肉屋を営んでいましたが、津波でお店が流されてしまいました。震災によって変わってしまった相原さんの暮らし、そして、閖上への想いを語ってくださいました。 交流の変化 Q:なんかこう、震災を経験したからこそ、その昔の交流が何か変わってしまったっていうのもありますか? 変わったわな。で、商店街なくなったっちゃあ、で、今再開市場でやってるの。その、そいつらその人らとの交流はねえ、全然ねえわ。 Q:その、逆に、新しく交流が始まった人とかっていますか? この団地(仮設住宅)で。うん。ちょうどここ閖上一丁目の人が99パーセントな。だから、ほとんどみんな知り合いだっちゃ。だから、まあ助かってるっちゃあな。まるっきり知らねえではねえ。 Q:その残りの1パーセントの人っていうのは、どちらから・・・ どちら・・ってあの、福島のほう・・・。 Q:そういう方たちとは、結構交流が・・・? は、全然、俺は、私はないね。 Q:それは、あの、交流する機会がないんですか? そういう人は、なん、こういう、とこに来ないのね。ここは(仮設の集会所)、あの、交流の場だから。で、昨日飲み会やってさ。手ちょっと気になって。 Q:よく参加なさるんですか? 参加、ええ。参加100パーセント。参加することに意義あるもんね。 生徒:それでまたお互い団結しようっていう・・・ 震災前の閖上について・相原さんの思い Q:その、まあ、新しい環境にいらっしゃると思うんですけども、その震災前の閖上のこととかを思い出すことって多いですか? 思い出したくないな。うん。寝るの思い出すとさ、やっぱ帰る気になるわな。帰り・・・帰れないからっていうの・・・思い出したくねえわ。思い出しても、戻れるか戻れないかってのも分かんないっちゃあ今、現在。戻れんならばね、俺、もう一回やり直しましょうっていう気はあってもさ、戻れっか戻れねんのか分かんねえんだわやなあ。・・・だ、あの、道路のね、ちゃんと決まったさ、このようになりますよっていう説明があればさ、じゃあ戻りますかってのっけども、道路もなにもわけわかんねんだものさあの、戻ってもどうしようねっちゃな。ましてや・・・タイヤかわかんねえんわな。 伝えたいこと Q:あの、これ僕たちが今日撮ったビデオを将来見る人とか、今の閖上、名取の実情を知らない人たち、名取だけじゃなくて、被災地の実情を知らない人たちに、何か伝えたいこととか、知っておいて欲しいことって・・・ うーん、こういうことは、二度と経験してもらいたくない。うん。できんならば。でも、いま日本でそっちこっちで地震が起きてっからねえ、なん、注意ってか、そういう注意だけはしてもらいたいなあ。きん・・仕事はわきまえてさ。いつ起きっか分からないんだからよお。そん直前をも見てっから。だ、やっぱあの北海道の釧路かな、あれん時もテレビ見てて、まさかと思ったよ、閖上もああなるとは思わなかったからね。だー来たから、ああ来たって、まず、まさかなあ、ほらああいう津波来るとは思わないっちゃ。だ、ああいう津波は二度と見たくないわ。まあ、経験者だから言えるんだけっども、ほんとあれはほんと、一生忘れられないね。 インタビュー一覧へ戻る

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