高橋 久子さん

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閖上1丁目のまちカフェでインタビューを行いました。自作の歌と前向きな姿勢が印象的でした。


仮設住宅での生活について

Q:今住まれている仮設に、震災前からの知り合いの方はいらっしゃいましたか?
A:知ってる人は1人か2人くらいいたけどね。たまにかまぼこ屋さんで働いてて、あーとかいう人いたけど、ほとんど顔見知りじゃないよ。でもほら毎日、出てくる人は誰それさんってわかるけど、集会所に来ない人。2、30人は来るけど、後の人は行きたくないって。男の人なんかとくに、お年寄りの方とかとくに。やっぱ、1人2人しか来ないもんね。男の人って来ないんでないかな。だから知らない人も、8割ぐらい知らないんじゃない、未だに。わかんないよ。顔見知りの、ほらお茶のみって20人ぐらいいるけど、後は分からないよね。

Q:仮設住宅に住んでいて大変なことはありますか?
A:大変だって言ったってしょうがないです。大変だって言ったら何でも大変です。やっぱり隣の家に音が聞こえるんじゃないかとか。やっぱりうちの団地、セキスイハイム、ガラスも二枚になってるから音もきちっとしてるね。隣の音もおっきな音だと聞こえるけど、戸あけてない限り聞こえてこないよね。テレビの音とかも。家の面積は小さいけど、防音はしっかりできてるよね。普通の住宅と同じ作りなんだって。仮設仕様じゃなくて、あの一般住宅、セキスイハイムの住宅を仮設として使っている状態なんだって。だからうちのもしっかりしててね。だからお風呂でも”ピコピコピ間もなくお風呂が沸きます。ピコピコピお風呂が沸きました。”っていう普通の家庭の…ユニットバスって言うのかな。四角の狭くて入れないとかって言うのでなくて。普通の新築住宅みたいなこういう形の。


エンジョイ仮設

エンジョイ仮設住宅
津波の大震災で仮設住宅に入った
8件の住宅が連なっている
昔はハーモニカ長屋といったそうだ  
ハーモニカなら私の部屋は1号室だから ドレミのドだ   
ドレミの歌のドは ドはドーナッツのドだけど
どんなときにもともある そうだ、どんなときにも明るく楽しく 振り返って暗くならず この状態を受け入れて前進あるのみ  
海辺の家から山手のセカンドハウスに来たと思えば楽しいじゃないか 
こたつから五、六歩で 台所風呂トイレ 花の水やり 洗濯干し  
なんでもコンパクトで楽だ主人と二人 なんでもオープンで 秘密基地もない 
知らない人ともあいさつを交わし  多く作ったおかずや野菜を交換 
たまに違う通路を通って 鉢植えの花や野菜を眺めたりしている  ただうっかりすると  自分の家を通り過ぎたりしてしまう  
だから西側の雨樋に 目印にピンクの小さいリボンをつけた 一人でくすっと笑った  
みんなでドレミの順にならんで ドはドーナッツのド レはレモンのレ  などと、歌ったら楽しいだろうなぁなんて バカげたことを空想している ははは

狭くてどうのこうの言うんじゃなくてやっぱり現実を受け入れなきゃいけないのよね。本当に文句ばかり言ったって天災なんだからね。ドーはドーナツのド、レーはレモンのレーって、ミの人はミーはみんなのミとかって八人並んでやったら楽しいでしょ。まだやったことないけどさ。そういうのを考えてエンジョイ仮設住宅って言うのを書いたんですよ。


震災後の人との関わり、助け合い

震災後、しばらくして同級生のみんなから電話貰って。支援物資を送ってくれたり本当にうれしかった。あの時は本当に寒かったからね。調剤薬局に行ったら、どうぞ、御自由にと書いてあったので、主人は毛糸の股引きを見つけて、あーこいつあったかいからもらおうなんて言ってもらったんだよ。着のみ着のままで逃げたからね。普通なら洗濯してからはくんだけどそのままはいて喜んだんだよ。震災後すぐには支援物資はこないんですよ。道路も壊れてるし信号もなかったしね。多分調剤薬局には近所の人が持ってきてくれたと思いますよ。ズボン、ジャンバー等サイズが合うものをもらってありがたかったですよ。私は仙台の息子宅にお世話になったので暖かい食事、布団で過ごすことができたので避難所で生活するよりは幸せだったですよ。近くのところでラーメン炊き出しをやっているという事で行ったんですよそしたら店の外でテント張って、お金も払わないのにいらっしゃいませーと暖かく向かいいれてくれて、ラーメンとごはん息子家族の分と六人分頂きました。京都の餃子の王将というラーメン屋さんだったね。責任者の方に「みんな流されたんだよ」と言ったら「ちょっと待っててね」と言われて、待ってたら卵を30個位と果物をもらってね、うれしくて握手して涙がこぼれました。


今後について

閖上…2年7か月経ってもなにも変わってないですよ。だから今後どうなるのかねえ。でも私は家を建てるつもりはないので、市役所にお世話になるしかないですよ。一戸建てに入れるようにって要望をだしているんですけど、まだ、今から町を作って、戻れるのは、まあ戻るって言ってももっと西の方に一戸建てを希望しているんですけど、ここの地区じゃなくて。
世界中のみなさんに色々支援していただいて、こんなに元気になりましたので、ありがとうございますっていうのをお伝えしたいと思いますね。これからも私たちを見離さずに見守っていただきたいと思いますので、よろしくお願いします。今日はありがとうございました。


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針生 敏夫さん

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現在、農業のお仕事をされている針生敏夫さん。震災直後、多くの人を高台に避難させ人命を救いました。夜中に震災の悪夢を見て眠れない夜が続いたと言います。


人とのかかわりや仮設での生活

んーそういったのでストレスは溜まってないとおもうんだけどね。あー、みんなおんなじなんだもん。みんな被災してんだもん。

Q: 結構、前の方々と話しされたりとか、心強い環境ではあったんですか。
うん、そう。やっぱりほら、みんなと仲良くしなきゃいけないなあっていうそういう思いを持って接すれば、やっぱり揉め事って起きないもんですよ。

Q: その二ヶ月後に仮設に移られて、仮設住宅での生活ってどうですか。
んーと、まあ、外に出てるわけじゃないですからね。風も当たんないように。まあある程度は、ほら、話し声とかテレビの隣の音とか、しますけどね。まあ、くしゃみとか話し声は聞きますけどね、うん。それはお互い様だから、うん、仕方ないと思う。橋の下に寝てるんじゃないからね。暖房ひいてね。また、こういったとこに、住めるだけでも、ありがたいなーっとおもうですけどね。


震災から年月が経った今…未来への不安

ストレス溜まってるかはわかんないけども、んー…多少はやっぱり…あるかもしんない。仮設に暮らしてっからじゃなくて、やっぱり、先を見たときにやっぱり。先を途中..見なければいいんだけど、先を見てしまうと不安があるじゃない。うん…その日を大切に生きれば、そう感じないんだけども。どうしても..その人その人の事情があるからね。そういった時にやっぱり、不安とか感じるとやっぱりストレスも溜まるかなあ…うん。


3.11のこの震災を、絶対に忘れてはいけない

んーちょっと辛い時もありますね。辛い時も..あるんですよ。でも、風化させてはね、ダメなんですけどね。やっぱり伝えていかないと。


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荒川 裕一さん

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生まれも育ちも名取市閖上の荒川裕一さん。閖上への思い、震災を通しての経験や現在の心境を語ってくださいました。


閖上の魅力

楽しかったね、閖上っていうのは。まあ、自分んちの前バス停だったから賑やかだったんだよね、ずっと。朝から、だからそういうのでもね、今何時ですかーって聞きに来たりね。ははは。

Q: 荒川さんの所のドアって開けっ放しとかだったりするんですか?
だいたいはね、開けっ放し。余計バス通りだからね、開けっ放しで。鍵けるのは夜だけ。寝る前にかけて、そんな感じだったね。

Q:いろいろおすそわけとかもあったり・・・
うん、だね。小さい頃から魚とかはね、いろんな人からもらえてね。そういうのはあったよね。まあ、あの人しばらく見ないんだけど、どうしたんだろうねって、話になるね、表にでるとね。うん。


震災直後の様子、避難所での生活とは…

ほんでその夜だよね。閖上に行こうとしたんだけれども、もう息子から電話きて、閖上ないよって言われて、でも自分は信じられないから向かったんだよね。ほんでやっぱり行けなくて。そしてしばらく1時間くらいねどうしたらいいかわからなかったの。うん。どうしようかなって。避難所っていう(考えが)の頭になかったの。そしたら、あれって避難所ってあるよなって思って、で名取に来たんだけれども、そしたら文化会館っていうとこだけが非常灯ついてたのちょうど。そこに立ち寄ったら人いっぱいいるのね。そんで一人だしねまあ、俺よりもねやっぱり年配の人たちもいるし、その人たちも立っているし、ここにいてもダメかなあって思って、市役所に戻りに行って、ええ。でそこは電気もついてたしテレビもずーっと見ててね。幸いにそこに暖かいコーヒーがあったんだよね。自販機があって。だからそういうのでね少し助けられたんだなって思って。避難所にもうねえ3日か4日くらいしかいなかったんだよね。

Q: 寝る場所って布団ひくだけとかですか、それともなんか段ボールの上とか…?
そうそう、段ボール、毛布ね渡されたんだけれどもやっぱかけないでみんな敷くんだよね。だからそれをみんな敷いて、まああと知り合いの人からね、毛布とか布団よこされる人はそれをかけていたけれど。ほとんどはみんな敷いてたね毛布。俺行ったときはもうなかったのかなあ。毛布。確かなかった。

Q: そしたらもうじゃあ地べたに直で?
うん。俺はね、その震災の夜と次の日の夜はねずっと寝てないの。結局閖上もどうなっているかもわからないし、そしてそのころまだ母親の消息っていうのはわからなかったからだから気にはなるし、なんか寝付けなかったね、ずーっと。


閖上への熱い思い

で閖上に戻ってきたくもなったよね。一人になれば。他に行く気にはなれなかったね。閖上に行ってまたみんなと会えるんだあって思って。閖上好きだしね。

Q: 閖上の何が好きですか?
何がってねえ。まずね、海が近くにあるっていうのがいいよね。そして車があれば便利だしね、閖上は。友達とも会えるし。近所の人たちともなんもトラブルなくやっていたしね。知らないとこに行くよりはやっぱりいい閖上の方がね。


仮設での生活

まずここ来てね一番はまずほっとしたね。自分が落ち着いて寝れる場所があるって。気を遣わずにねただやっぱねこういう作りだから物音とかそういうのを気にしながらなんだろうなって思いながらだったけれども、でもほっとしたね。だって好きな時に横になれるし、風呂にも入れるし。だからそんでもねまだ閖上の多くはまだ仮設に入れない人がいっぱいいたから先に入って申し訳ないなあっていうのもあったしね。


これからの閖上

今?今ね、わからない。たぶん戻らないかも。戻ってもそんな知っている人いないんじゃないかなって。俺もともと現地再建っていうのも嫌だったからね。本当に安全な現地再建だったら戻るけれども、今のあれではね。また津波が来たら浸水しってなったら嫌だよね。 将来ねえ。だから閖上がどうなるかだよね。なにも見えないから不安だらけ。未来に関しては。

Q: 荒川さん自身はどんな町にしたいとか、閖上を思いますか?
だからね、本当だったらね、前くらいの震災前の人口に戻らなくてもせめてね、5000人くらいは戻ってまたね、わいわいやりたかったっていうのはありますね。


震災を通しての人間関係の変化

あのね、特にあれだよね、親戚関係。今までだったらね閖上にいたころっていうのはもう何かあるたびにちょくちょく行ってたけど、今全く行かなくなったしね。よっぽどなにかないかぎりね、不幸あったとか、祝い事があったとか、っていう以外は会わなくなってるね 。前は普通に合えば挨拶とかもしてたけど。親戚すらね、どこに住んでいるかわからない人もいるし。まあ遠い親戚だけどね。

Q: 連絡とかあんまり…?
だよね。本当に連絡先とかもわからないし。今って本当に血の濃い親戚だけしかわからないよね。

Q: それは震災でバラバラに
バラバラになって、ええ。


震災を通して、今後、人々に伝えていきたいこととは…

まずね、伝えたいことっていうのは本当に風化させないってことだね、このことをね。自分だってそうだったのかもわかんないってあるんだよね。いろんなこと、いろんな自然災害、事件事故もだけど。それを自分たちがどう頑張ったら本当に忘れずにいくのかなっていうのはね、もっと考えないといけないのかなって思うんだね。そして今から閖上の町がどうなるかはわからないけども、閖上の町っていうのはこういう楽しい町があったんだっていうのを、それもずっと伝えていかなきゃいけないのかなって思うよね。まあ、あと今からだと思うんだよね、いろいろわかってくるのが、もっともっと。ええ。今はまず、あれだよね、落ち着いてはきたけどやっぱりまだ何をしたらいいかっていうのがわからないよね。うん。ただ本当こういうことがあった、そしてこういう町があったっていうのは、覚えてるだけじゃなくてもっと伝えていきたいね。今はそう思うね。


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小斉 正義さん

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閖上で生まれ育った小斉正義さん。退職直前まで仙台で働いており、震災によって家が流されてしまいました。少し前までは仮設に住んでいましたが、つい最近中古のマンションに引っ越されました。閖上について多くのことを語ってくださいました。


震災後の町のつながり

Q:震災の方で、震災で町がつながった・・・
うーん、つながり・・・つながり、っていいますかね、結局あの、一応あの、町内の、あの町内会体でもってこう、ある程度集められたもんですからね。であの、必ずしもその町内の中にだけお友達とか友人がいるわけじゃないんですよ。別の町内の方もいるわけですよね、バラバラになっていくわけ、どうしてもこう。なので、あの、必然的に連絡が取りにくくなった。とそれにあと、あの、民間のアパートに入る人もいるわけですよ。ですから、特に民間のアパートにはいった方は、今(電話)よこした人なんですけどね、どこにいるのか、っていうのはあの、しばらく分かんなかったんじゃないですかね。んで、だんだんだんだんこうね、あの人はどこにいるっていうふうに分かってきましたけどね。だから、あの、そういう意味でのコミュニケーションがなくなりましたけども、意外とね、ひとつの町だったもんでですね、小さい町だったもんですから、そんなにあの、コミュニケーションが悪いっていうかんじはしなかったですけどね。


仮設でのつながり

Q:今は、だいぶなんか、今は仮設ですよね、仮設でなんか、そういうもともと、まあ一つの町だったっていう感じがしますか?それとも、なんかほかの場所から来た人もいる・・・
うんうん。そうですね、あの、比較的閖上の人たちだっていう気がするもんですから、そんなにあの、違和感って言いますかね、そういうものはなかったですね。仮設に暮らしているってこと自体は、違和感ですけどね。ただあの、個人的には、そんなにあの、違和感は感じなかった。で、それにあの、造りがね、造りがよかったんですよ。言ってみれば、昔、日本でいう、長屋形式なんですよ。ですから、必然的に隣の人ともお話しするわけ。それから、あー、前後ろもですね、あの、平面で顔、必ず開ければいるんですよ。ですから、そういう意味で、あの、まるっきり顔しらないわけではないですし、ですから、こうあまり違和感っていうか、その疎外感っていうか、そういうものはなかったですね、私はね。


人間関係の変化

Q:震災前の、閖上と比べて、今の閖上って、どんなことでも良いんですけど、人間関係とか、変化とかはありましたか?
うーん、まあ、でもね、この通りでね、閖上の人っていっても、もう閖上の人は閖上に住んでるわけでもないですわね、ですからもう、それぞれでもって、ええ、2年8か月ね、暮らしてるわけですから、まあ今の現状には、あった生活を捨てざるを得なくなると思うんですよ。だ、そういう意味では、なんていうんでしょう、もう、別々の、生活を、に、向かって歩み出したっていう感じじゃないですかね。みながみなではないですけどね。 ・・・・ たもんですから、自力で再建できる方は、もうそれに向かって動き始めたんです。で、今だいたいこう、落ち着いて来たようですけどね。ですから、やれる方はこう、どんどん動いたもんですから、そういう意味では、まあそれぞれの道をですね、歩きはじめた人たちと、あと市のこう、閖上の行く末をね、見て、今でもこう、じっと動かない人たちと、になってるんじゃないですかね。


震災後のコミュニケーションについて

Q:小斉さんご自身の経験で、震災前と震災後で閖上人との付き合い方の変化はありますか?
うーん。変化っていってもね、友人知人は亡くなってるしね。ええ。ですから、まあ、変化しようにも相手がいなくなってるわけ、私の場合は。親戚もなくなってるし、えー、うちの近所の、ね、友人知人も亡くなってますから。私そのものとしては、変化というよりももう誰もいなくなったって感じだわね。だ、そのみなさんは、そういうこのコミュニケーションとかね、そういうことによる、こう、調べたいんだと思いますけど、今回の震災に関しては、あまりにも人が亡くなってるのでね、そういう意味で私自身は、あの、コミュニケーションというか、コミュニケーションとる人がいなくなったっていう感じですよね。で、それにあと、ほら、今言った通り、もうバラバラになってますしね、いずれね。バラバラになってますので、あの、ひと、その、閖上の町としては、全然想像つかないわけですよ、もう。みんなバラバラになってるもんですから。ですから、さっきまで話したのも、しばらくぶりなので、私がほら、中古のマンションに移ったものですからね、したいということで、こうやって電話で、ぐらいしか、連絡とりようないわけですよ。今までだったら、ひょーって行って、おーって言うんですけどね。ま、そういう意味では、ね、あの、コミュニケーションがあってないようなもんっていうか。コミュニケーションそのものが、もうね、必要ないっていうか、極端なこと言ったら、もう今それぞれの生活も精一杯ですからね。そこに住んでるとこでやっていくしかないと、ま、仮設だったら仮設の中で、で仮設だって、みんなバラバラの仮設でしょ。閖上は全部一つの、になって仮設はまたべつですけども、結局、こっちにある仮設、あともうこっちにある仮設、ってそういうのがバラバラですから、その中でしか、やっぱりやれないていうことでしょうか。あとは、復興してきて、今度はどういう、あの街づくりしていくか、その中で、どういうコミュニケーションが生まれるか、だけであって、今はもう、閖上の町そのものがないに等しいもんですから、コミュニケーションって言われても、それはちょっとね、いろいろこうやってね、こういう記憶とか、そっちにもあるでしょ、閖上なんとかカフェとかですね、は、あるんですけどね、ま、そこは、それだけのもので、で、全体的なものじゃないよって。でまあ、・・・お祭りもあったんですよ。お祭りもね、あの日和山でもってね。それでも何人くらい来てんのかわかりませんしね。ええ。昔であれば、祭りだって、みんなのうちでね、あの、各の家で、お赤飯を炊いてね、で、あのちょっと料理をつくってね、えー、やったもんですけど。今は別にね、仮設にいれば、閖上のお祭りだったったって、仮設で赤飯炊くかっていったらそんなこともしませんしね。だから、コミュニケーションそのものがありますかって言うこと自体がもう、ね、あの、不自然ていうかね、私から言わせてもらえば、もう。


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