石川ふき子さん

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震災があった年の6月に、妹さんと愛島仮設に移ったそうです。


移転、将来の住まい

Q:いつからこの仮設に移動されたんですか。

えっとね、6月。3年前の6月だから何年だろ。20、23年。23年か。の6月、始め。うん。だから1年更新の契約。1年契約なの。ここに入ってるの。だからなんかあれば、もうなんか出てってくださいって言われたら、はいそうですかって出ていかなきゃなんないのね。何か問題起こせばね。うん、だから6月になったらまた新しく、また、契約。更新、更新かな。なんていうのかな、そういう、そういうのをしなくてはなんないのね。だからそろそろ来るなーと思って。みんな最初は言ったときは1年契約だと思うのね、ここね。うん。

Q:これからってどういうところに住みたいとか決まって・・・

いや、ありますねー皆さんやっぱし。西、あの、ん、高速道路。西川。西川ってとこの気候は好きなんだけど、まあ正直帰りたくないね。私は津波は見てないんだけど、やぱっし映像で流れる、てるのを見る、てポンていうのをしたらあれだけども、あの、津波のときはもう私、もうすぐにね、上に行ったから。映像で見てね、あれが恐くてね。うん。(10:47・・・)やっぱし、住むとこないから。うん、公営住宅?そういうとこに入るより他にないですよね。 もし代替地。お金も、うんぬんで代替地もらったとしても閖上なんですよね。うん。閖上からちょっと離れたとこ。そったらもう同じことだなあと思って。うん。閖上に、戻るほか、ないなあって。ちょっと若い人たちの子供さんもいるしね。なんか将来的にさ、子供たちの将来もあるし。若い人たちは家、土地、求めてね。うん。出てってる人もいるし。準備してる人もいると思うのね。うん。私は私で60過ぎると、この、市の、やってることに従うほかないです。行くとこないですもん。うん。自分で食べなさいって言われても資金ないしね。子供たちも独立してまあお母さんに迷惑をかけないようにとね。うん。


仮設でのくらし

Q: 仮設の、この生活っていうのはどうですか。どのように感じてますか。

ねー。ちょっと贅沢言う、うーん。苦痛に感じるときがある。で私、狭いって言ったらばあれだけど、まあ私は、贅沢させられてきたと同じなのね。嫁に来て新しい家に住まわせてもらって。失礼だけど貸家ってとこには、あの、そういうとこに入ったことないから。もう、来たときはね、狭いし、二部屋分も、二部屋分しかなくて、もう圧迫感が凄かったの。うん。そういう贅沢っていえば贅沢、ね。新しい家に住まわせてもらって。貸家なんて入ったことないから。だ、戸惑うとこもあるのね。やっぱしこういう思いには聞こえんだけど、生活音って聞こえるわけじゃない。水道の流れた音とかね。そういうの経験したことないから。やっぱし凄い圧迫感はあって。そーだなー。夜眠れないでしょ。眠れないから家で(13:13・・・)家の娘って帰ってくるの遅いのね。んーなんかあの。朝方の1時半とか2時半に帰ってくるから。私寝ないで待ってる、待ってる時もあるんだけど、やっぱし体が具合悪くなる。寝てないし。だから導入剤っての。あれ飲んで眠りはしてるんだけど。あれ飲んでも一晩でも眠れないときあるの。そうすっとおかしくなってくるんだろうね。だから夕方でも、車でどっかいこうって。私が運転できないから。お父さん、車でどっかにいこーって。誰、誰が運転するんだーと。俺運転するんだぞーって。うん。ほんとにほら、本当に、申し訳ないんだけど、もう、ここに居たくないときあんのね。うん。あの部屋もう、一人でいると思うと。うん。贅沢な悩みね。これね。住むとこないひともいるんだから。んな、贅沢な悩みだなーと思うんだけど、やっぱし、ね、一軒家。貸家でもいいから一軒家には住みたいなと思う。でも2階っとかは私嫌いだから。しんどい。年とってるから二階に上がんなきゃいけないでしょ。一軒家。うん、一軒家に住みたいなー。それを今希望してるんだけど、抽選になれば。抽選だから。抽選外れればどこにいくかもわかんないし。ここ2年くらいでできれば。あと何年ぐらいかかるか。ちょっとね。一応28年とか29年にできるっていうけどもね。うん。一戸建てのほうができるの早いんですって。だけど、そこに入りましょってすぐはいれないでしょ。


心の支え

Q:そういう生活をされてる中で、なにかこう、支えとな、石川さんにとって何か支えとなるものってありますか。

うん、うん。特にね、あの、第2水曜日と、第4水曜かな。手芸の先生が来てね、教えてくれる。お裁縫教えてくれるの。お裁縫教えてくれるの。今そこに、ああいうのね。(15:24・・)うん。そういうの教えてもらって。縫ってるのね。今は、これ3月だけど、今5月バージョンで、男の子も作ってんの。うん。糸とか針とか持ったことないんですよ。うん。針とかね糸とかなんかとおしたことない。雑巾ぐらいは縫ったことあるけど、それお裁縫なんてしたことなかったの。ここ来てから、いろいろ、ね。うん。

Q:その手芸を始めたいって、そういうイベントに参加したいって思ったきっかけはなにかありますか。

うーんやっぱしね、やろうっていう人から誘われて、やってます。できるから、私らも初めて、ね。針とかぬったこともないのにできてるんだから、できるから大丈夫だよって声かけられて、やるようになったのね。うん。本当にね、恥ずかしい話、糸の種類、針の種類、全然わかんなかったの。この歳になるまで。うん。あっと、やっぱし糸があるっていうのはわかってたけど、針にね、あのー、絹針とかいろんなの、全然わかんなかった。初めて分かった。ほほ。(笑い声)恥ずかしい話。わかります?全然そういうのわかんなくて私。うん。ね。針も種類あったんだーと思って。この歳になるまで。ほほ。(笑い声)これやってる感じで、あ、絹糸はこれだなーとおも、木綿とか。あと、穴糸っていうのもわかんないね。そういうのやってみないと。うん。

Q:そこで初めて知り合った方とかいらっしゃいますか。

閖上はね、顔見知りはいたんだけど、名前が分からなかったの。こんにちは、おはようございますって挨拶するぐらいで、なんも話したことはないんだけどここに来て、お友達になってね名前分かって、同じ2町目の人なんだ~って、うん。ここにきてからやっぱりみんなと話してね、名前分かって、話するようになって、あと夕方6時くらいかな、散歩。みんなで歩いて。


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羽賀 慧さん

宮城県柴田町出身、お住まいの20歳。取材当時、東北学院大学の2年生。佐々木さんや神さんと同じく、東北学院大学のサークル・災害ボランティアステーションのメンバー。現在その活動の一環で、私たちのビデオインタビュープロジェクト同様の「メッセンジャープロジェクト」のメンバーとして2013年の夏に主に活動されていたという。

1.メッセンジャープロジェクトを通して: 被災地⇒「復興地」

Q.実際に自分たちが、たとえば事前で調べて分かった情報とか、テレビでうつされている情報じゃない、本当に生の声を聴けたことってありますか。

A. 一番衝撃的だったのが、あの、気仙沼唐桑町の、唐桑旧小学校仮設っていうところがあるんですけど、そこの会長さんに言われたことで、その被災地っていう言葉を使わないでほしいってことを言われたんですよ。それにはほんとにハッとして。まずメディアでも、被災地の今っていう番組があるんですよ。もうこの時点で被災地っていう枠でくくってるじゃないですか。でも実際、現地の人にしてみれば、瓦礫は片付いたし、生活のインフラは安定してきたし、別に被災はしたけど、現在進行形で被災地ってわけじゃない。過去が被災地であっただけど、今は「復興地」みたいな言い方をしなきゃいけないのに、メディアとかはその被災地って言葉をまだ押し付けているってことですかねえ。なんでやっぱりこういうことが聞けるので、現地にはいかなきゃいけないって風には思いますね。

2.ボランティアとは「両立」: 自分のためのボランティア、人のためのボランティア

Q. 羽賀君が思うボランティアってなんだと思いますか?

A. そうですね。俺が思っているのは、自分のためのボランティアと人のためのボランティアっていうのを両立する、と思いますね。人の為だけにやるって言うのは、ちょっとおれは間違ってると思うんですよ。人の為、100パーセントひとのためっていうのは無いと思うんですよ、ボランティアから自分がまなぶことを否定してると思うんで、まあ半分くらいは人のため、あとは半分くらいは自分の為、自分がまなぶためって風に考えて、俺はそういう風に考えてボランティアしてますね。

3.将来への目標、計画:近場で復興に携わる

Q. 羽賀君自身が今後自分の将来においてなにか建ててる目標とか計画とかっていうのは何かありますか?

A. そうですね、今の時点で、また変わるかもしれないんですけど、今の時点では、結構具体的になってくるんですけど、自分はその宮城県職員として、宮城県の為に働けたらいいなっていう。で、それで行政職だとそういういろんな企画とか、ボランティア関係の企画とかっていうのもできますし、宮城県全体の仕事もできるので、なんかそういう人のためになるような仕事ができたらいいなっていう。で、それを通じて近場で復興、復興だけじゃないですけど、近場で復興を自分で考えていきたいし、少しでも力になっていきたいと思っています。

貴田慎二さん

桜井さんと二人で応じてくださったインタビューから数週間後、個人インタビューにも再びご協力をいただきました。主にCDP(ご自身の運営するスケートボードパーク)や行政について語っていただきました。

1.市の職員に対する反感、不信感

Q. こないだ、つい先週お邪魔した時にあまり深く聞けなかったのが、こちらのほうに市の職員の方が来て、ここはもう終わってるって言うのはよくありますよっておっしゃってrたんですけど、何しに来てるんですか?

A. 何しに来てるんだろうね、市の職員っていろんな、その市にもいろいろ何々課っていうのがあって、工事とかやってるから建築家とかそういうのもいろいろあるし、市の生活課とかのもあるし、その人だねたぶんね。その人が結局こっちでこうセブンイレブンからこっちの道路っていうのは危険区域とされてる場所で、そこで会えて何かやってる人たちって言うのは、こいつらなにやってるのっていちいちみにくるんだよね。そういうのは、ここは住居をたてちゃだめって言われてる場所だから、そこに住居構えてるんじゃないかとかそういうの色々みにきてるみたいで、ほんとになにやってるのかはわかんないけどね。

Q. じゃあ定期的に業務としてきてるうえでそういうことを口に出すっていう

A. そう!まあ気にしてないけどうちとしては。疑問をもってたとしても、市の職員って税金で食べてる人たちだから。そういう人たちをまあこういう僕らみたいにね、こういうことやってるやつらがそういう人を信頼できるのかっていったらしないし、何だったらちょっと敵だって言う風に思っちゃってるところがあるから。まあそれにしても暴言だった

Q. まあ市の職員って言うのは決まった業務があってそういうことを言う人もいると思うんですけど、同じ経験をしているであろう人がそういうふうに傷つくようなことをゆってくることってありますか

A んー

Q. そんな、たとえば今一生懸命やってることにたいしてそんなことやったって何のためになるのとかいうような言葉を・・・

A. あーそれはもちろん、その暴言はいたおじさんにしても、まあまずなにやってるのっていうのを聞いたうえで、いやこういうのを作ってで、こういうためにやってるんだっていっても、結局ここの土地がどうなるかわかんないのにこういうのやっててなんかいみあんの的なことはゆってきたりするから、でもそれを気にしててもしょうがないし、それ気にして何かやらないよりはやってたほうがいいから・・・ほんとそういうのいわれてもそういうの基本きにしないっていう。言われたら頭来るけどね、まあ引きずらず。Q. じゃあそのこちらに来る人っていうのは、きださんがこのパークを作った想いとか、一応知ってはいるんですか?

A. うん、だから何やってんのかって言われたら、素直にいやこういう活動をしてますっていうからおそらく知ってはいるとは思うんだけど、結局市の方向性として僕らが、俺が思ってるだけなんだけど、やり合い事っていうのは市がこの荒浜っていう土地を買い上げて自分たち、市がやりたいようにやりたいんだから結局は僕らは邪魔なわけで。だってこの土地を売らないって言う姿勢でいるわけだし。あっちサイドはあっちサイドでじゃまに思てるだろうからだからセブンイレブンとかの看板とかでもさ、僕らへの対する文句があいうふうに形として出ちゃうわけだから。荒浜の地区だけでなくて被災地のひとたちは市政であるとか県政であるとかまあ国もそうなんだけど、全く信用してない。

2.10年後の自分

Q. 今現在の話から未来、みたいな感じになるんですけど、先ほども與沢さんにもお尋ねしたんですけど、10年後の自分っていうのはどんなかなっていうのって・・・

ぼんやりもしてないですね。全く見えないっす。だから十年後、なんだろ。10年後もここを続けるように頑張りたいくらいの感じのことしかないですね。生活が完全にこのパークやってるっていうのが完全に中心で、自分の生活が成り立ってるんで、今の頭だとその考えしかないですね。とにかくこの場所で、このパークを続けられてる、そのビジョンしかないですね。そのためにはっていうのが、しかぎゃくにないっす。生活はもうどうなってるやら。うん。そんな感じ。

與沢さん:パークで食ってるでしょ

パークで食ってればいいですけど。実際問題スケートパークで、スケートパークだけやってて食えるかっていったら全国的に無理なことなんで、それがどんな有名なとこでもパークだけでは正直やっていけない。だからまあ、なんでもいいんじゃない、仕事は。お金を稼ぐ法っ法っていのうは。バイトでもいいし、ちゃんとした契約の元正社員だったとして、でもやるからにはここをやるためっていうのがあるから、ここの営業時間内に働くってことはぜったいしないし、うん。10年後あんまかわってないっすたぶん。

3.CDP、仲間

やっぱ一人じゃできなかったなっていうところがあるんすよ。始めたときはひとりでしたけど。だからこの2人が加わってよかったなっていう。うん

(笑)

だからね、ぼく桜3本に拘ったでしょ?

與沢さん:あーそれはそういうこと

桜・・・つい最近植樹したんすよ。苗木なんすけど、最初は一本しかたてるつもりなかったんすよ。で、でも、まあこのスタッフ三人

與沢さん:泣かせるこというねえ

言わなかったもんね。

與沢さん:そうだね。

だからね、場所もこだわったんですよ。

與沢さん:ほーう

場所が三角形になるようにしたでしょ。

與沢さん:へえーちょっと

ずっとこのトライアングルでっていう

與沢さん:おー

伸びたら、入り口から、その桜3本がみえるんすよ入口からこうだから、

今だから明かす。僕考えてるんすよ

花坂明恵さん

花坂さんは吉田さんや工藤さんとおなじくNPO法人六郷七郷コミネットで勤務されています。福島県郡山市の生まれで、2歳からずっと仙台に在住。

1.仙台という地元への思いと将来

Q. やっぱりこう、仙台のところに長い間住んでらっしゃってのその3.11だったってことで、やっぱりここの地元にかんしての地元はつよかったりだとかしますか?

A. そうですね、長く仙台に住んでいて、私もやっぱり歴史が好きで仙台が過ぎく好きなんですけど、すごい面白い歴史をもっているし、先祖代々、私の家はずっと仙台なんですね。100年とかたぶん200年とかそういう単位で私の家はいるので、もちろんずっと住んでいたいなって思いはあるんですけど、なかなかやっぱりずっといることは、就職的な意味でも、やっぱりもうちょっと外に出ていきたいなって言うのもあるので。

Q. 外っていうのはこの県からの外ってことですか

A. はい、そうですね。将来的には出て行ってしまうかもしれない。戻ってくることがあるかどうかはわからないですね。

2.同世代の震災復興への意識・関心

Q. 周りの方で、たとえば同じ年代の方で、積極的に活動してらっしゃる方とかいらっしゃいますか?知ってる友人とか

A. インターネット上での友達とかたまに最近はないですけど、本当にヒサイチがまだ泥だらけの状態だったときにしょっちゅうこっちのほうには来てたっていうのは見てたんですけど、ほんとに自分のこう身近な友達とかはもう一切興味がない(笑)震災のその被災地に興味がないので、やっぱりいっしょによくご飯食べにいったりとかお茶したりとかまあ休みがあって、3人くらいの人に会ったんですけど、まあそれ以上かな、前の職場にも言ってみたので、けど誰も聞いてこないですね。私の仕事に関心が無いですね。

Q. それっていうのは時間がたってしまったからそうなっちゃったのか、もともと県外の人だから、とか、・・・

A. 周りの人はみんな仙台の人で、だけどみんな親戚とか被害受けてないんですよね。自分たちがやっぱり山の方にいるから全然見てない、現状をみてない。いろいろあったってことはわかってるけど、むしろあえて触れないってことはあると思いますね。

Q. あえて触れないってことは、今更そういうことを話すって言うことに対しての・・・

A. そうですね、結局なんだかんだって言ったところで自分は動かないし、動けないっていうのがあると思います。時間もだいぶ経ってるので。やっぱりなんか、私の周りは、ですけど、みんな仕事がなかなか見つからないとか、自分の将来に不安を持っているひとが多くて、そうやってひとのことまで考えてる余裕がないっていうのが大きいです。まあやろうと思えばたまにお休みくらいはでてきてなにかはっていうことはあるのかもしれないですけど、そういったことをするほどの情熱はない、ですね

3.危険区域へ戻ること=悲しいことの繰り返し

Q. なんか、お年寄りの方にお話しを聞くときとか、その3.11前のその生活に戻りたいとかなんかそれ以上はもとめないから元の生活に戻りたいってお話する方が多いんですね。今言ったのもまあそんな感じですかね。3.11前の仙台市のように、それ以上は求めないから、復興していってほしいっていう

A. そうですね。でもまあ、あの危険区域の方にはやっぱりひとはもうはいらないほうがいいんじゃないかなってふうには思いますね。みんな荒浜の人たちはもどりたいってふうには言ってるんですけど、被災を受けた人たちの台でおわりにするべきじゃないかなって思います。はい。また同じことを繰り返すのは、やっぱり悲しいことの繰り返しになってしまうんじゃないかなっていう。いまのそのもどりたいってひとの気持をむしするようなかたちになってしまうんですけども。

吉田圭俊さん

取材当時26歳、仙台市泉区出身の吉田さんは現在NPO法人六郷七郷コミネットで勤務。震災をきっかけに復興関係の仕事につくことを決めたそうです。

1.将来への展望の変化、就活をやめるきっかけ

Q. 東京に行かれてたってことで、就職先とかって最初は東京の方で考えてた・・・

A. 最初は東京の方で考えてたんですけど、まあ震災のえいきょうもまあ少なからずあるにはあるんですけどね!まあ結果的には就職活動やーめた、と(笑)震災を機に全く就活はしてないですね。

Q. じゃあその震災、その3.11の前に掲げてたじぶんの将来設計図じゃないですけど目標と、やっぱりその日が起きてからって何か大きく変わった部分ってありますか?

A. そうですね、まず仙台からは当初出る予定にしてたんですね。震災をきっかけにですね、まだ離れられんなと。いうきもちはどっかにあったのかなって。今の仕事に就く前に、半年だけ別の仕事をしていたものですから、まあむしろその卒業したあとにその気持ちは強くなったっていうほうが正しいんですけど。

Q. 一応じゃあきっかけとしてはその、3.11が心境的に影響したっていうのは

A. 少なからずあるなと。

Q. どういう気持ちがあってこちらに残ろうと思ったんですか?

A. まず一つは家族ですよね。両親、父親が単身赴任で東京にいますけど、母親はずっと仙台ですし、兄たちがいたんですけど当時震災直後くらいはちょうど仕事で実家を離れてましたんで、まあ母一人っていうのはあって、まあはなれにくいかなっていう、心配っていうのがあって。それから、純粋にその自分の生まれ育った町っていうのが震災でかなり大きな打撃を受けて、でも自分はそのふっこうにかんして何もできないのかな、何か貢献できることはないのかな、あるんじゃないかなって言う気持ちはあったかな。ほんとにそれは卒業した後ですね。どちらかというと前まではあまりそういうことは考えてなくて、むしろ大学を卒業することに必死で(笑)っていう状況ではありましたね。

Q. そういう思いもあって今のお仕事に就かれているっていうのがあるんですか?

A. そうですね、まあ結果的には。まあなにかしらそのずっと、なんていうんですかね、その震災直後は泥かきながらとか、何かしらかかわりはあったんですけど、その後大学が始まったあとは卒業研究の方で忙しくなってしまってなにもそういったことに関われずに、大学卒業して。で、それから仙台にしばらく働いてて、まあある日その被災した沿岸部まで車で行った、出かけたんですよね。あれが、震災から1年3か月?ごろに沿岸部に行ったら、基礎だけの。前は家がいっぱいあったんだろうなっていう後だけ残って、でもそこにそのまあ人の暮らしはもちろんもうないんですね。そういう惨状をみて、あーまだまだ復興・・・仙台駅前なんかね、1年3か月たったらもう綺麗になってましたけど、まだまだ沿岸部はそうじゃないんだなと思って。自分何やってるんだろうなっていうふうな思いになったですね。でそれで、たまたま縁あって去年の10月からなんですけど、平成24年10月からいまの仕事についたんですけども、まあこういった仕事を挑戦してみないかとお誘いを受けて。まあその知人からの紹介というか、知人がこういう仕事あるよって紹介してくれて、でとりあえず応募だけしてみればって言われて、わかりましたーじゃーやってみるーって。そして前までやってた仕事辞めて、で今の仕事に就いたっていう経緯ですね。震災っていうよりも、震災から復興してたような気がしてたのに、1年3か月たってなお全然そうじゃなかったっていう事実を知ってしまったことがどちらかというと僕にとって大きな今の仕事に就いたきっかけなんですね。むしろ。最初から、大学卒業した四月から震災の復興に関わる仕事をするんだ!っていう気持ちで卒業したわけではなく、どちらかというと卒業したあとに被災地をみて、なんかしなきゃっていう。ていうのがあります。

2.不謹慎⇒ポジティブに。震災直後の「若者的発想」

なんか特別、話すのがはばかられる、ていうのはない。まあ逆にその被災された方、実際今仮設にお住いの方とお話してるときに、じゃああの日はどうだったの何だったのみたいな話はね、どん!とはいきなり聞けないですけど、ただあの日内陸にいた連中でそのまあ大学の同期の中での話だと、当初はわらいがなかったのでわらいを生み出すためになんか面白いことやろうとかいっつも考えてましたんで、震災から1か月後にそれこそTwitterとか使ってみんなで男たちはみんなで水もろくに使えなかったので、ひげそらずにひげを伸ばして誰が一番カールおじさんになれるかとか(笑)そういう選手権をやったりとか、あとその関東地方でその、あの年の花見って自粛ムードだったんですけども、そんなんじゃ経済まわんなくなんじゃんっつって、まあ不謹慎っちゃ不謹慎なんですよ、一か月後にそんなことやるなんて。じゃあ仙台でも花見スポットで有名なつつじヶ丘っていう公園があるんですけど、そこでじゃあ2泊3日で花見やろうぜ!とか言って(笑)ずっと公園泊まり込んで花見やってたりとか、あえてそういうバカなことをしようっていうか、その若者的発想ですよね。ひとつね。だからまあそういうことをしたねっていう笑い話くらいはしますけど、ただ、ほんとにそのことについて友達同士で話すっていうことに関しては、まあ今さらってか、まあ笑い話には出ないですよね。なんかちょっと話すのがこう、今更?っていうような感じはあんまりしないかなと。まあでも僕がこういう仕事やってるって言うのは周りのみんな知ってるので、まあ自然とね、そういう話になったりもしますし、うん。

3.10年後の自分、復興にかかわることについて

震災当初って、泥かきとか、肉体労働ですね、そういうわかりやすい支援がいっぱいあって、そういうボランティアがいっぱい求められてたっていう背景があるので、じゃあこの3日間だけボランティアしよう!っていうのはやりやすかった。でも、いまってそれないんですよね。いまってどちらかというと継続的に支援をしてっていうようなボランティアで、あと専門性の求められるボランティアとか。そういうのが増えてきてしまって、実際じゃあ若い人にできるボランティアってなんだろう、あるいは時間のあるひとにできるボランティアってなんだろう。若い人って皆さん忙しいんで、なかなかその継続的にとか、あるいは平日の昼間っからって難しいと思うんですね。だからそういう人たちがどういう支援ができるかなあって僕もその辺すごい、こう、考えちゃいます。まあひとつ、やりかたとしてはチャリティーイベントを企画して寄付をっていうのはありかなと思いますし、僕個人的に勝手に、外側の支援なんて言い方してるんですけど、その、このチャリティーイベントの収益金は被災地の復興のために使いますよっていうような、まあそういったそういうような機関に、あの、現金として送られますっていう名目で、まあイベントを起こしたりとか、あとはその実際被災地に観光というか、まあその被災地見学とかを通して現地にお金を落としてもらうようなそういうツアーを組んだりとか。まあそういうツアーに参加してもらうことで、その、被災地の現状を知ってもらったり、あるいは飲食あるいはモノを買うということでお金を落としていってもらう。それはその、被災地域の活性化につながるので、まあそういったところで・・・まあほんとにお金お金お金!みたいな(笑)話で嫌なところなんですけど、実際に行っていただいてお金を落としていただくか、そのイベントなんかをやって、まあその、間接的に現金という形でまあ復興のために活動していただいたりですとか。あとはそうですね、ほんとにその若い人にできる事ってなんだろうっていうのは、実際関東関西の若い人たちにとってももっと難しいと思うんですけど、こっから支援ってなにすればいいんだろうっていうか。地元に住んでても、やっぱり大学生が支援をしたい、けど何が出来るのかっていうのがわからなくて、何もできないって言うのは聞きます実際。支援の入り方が分からない。

佐藤 ちかさん

佐藤ちかさんは、東北学院大学の3年生で現在はお祭りサークルで仙台市の人々と関わりを持っている。元々は栗原市に住んでいるが、今は大学に通う為仙台市在住。

Clip1: 「コミュニティーについて」

Q. 〜〜〜仙台市内で今必要とされているコミュニティーのつながりとか〜まあ3.11があったからこそ今必要なんじゃないかっていうご自身の意見も含めて〜

あ〜えーっと、集落移転?ってあったじゃないですか〜とかってじっさいどうなんだろうって思うときありますね〜その辺まだ勉強中なんで〜なんともいえないんですけどー本当に集落移転がいいのか〜個人個人で動いた方がいいのか〜次ぎ住むところ早く決めた方がいいのか〜もし個人個人で動いてしまうと孤独死とか見えずらくなっちゃうから〜集落っていいのかなーとかそういう事ってなんとなく考えちゃいますね〜。。で。。もし自分も一人暮らしだしこのまま結婚もしなくてーとか考えるとーそういうコミュニティーって必要だなっておもうし〜えーっとアパートでも隣の人の顔をしらないのはどうなんだろうって思う時はありますね。

Q. それって結構東京ではありがちな話なんですけど〜みんなマンションにすんでるひとは〜隣の人の顔もしらない名前もしらないって仙台ではそれって一部ではあることなんですね〜。。

でもなんかー私は田舎出身なんでーそういうコミュニティーがなくなることは寂しいって思うんですけど〜そういう仙台とか東京とかの人だと〜そういうコミュニティーとか付き合いが煩わしいっていう感じる人もいるのでまあいろんな価値観があるから〜もうちょっと(たかく?)的にいろんな情報を知りたいなーとは思いますね〜。

Clip2:「仙台を離れる理由」

Q. その地域を作るとかコミュニティーを大切にしたいいてそれを将来に活かしたいっておっしゃってましたけど〜それは〜ここの仙台、宮城県の中でやっていきたいのか〜それともまあこの県外をを出る事を考えいたりだとかーしてますか?

県外も考えていますね〜なんかまあこの時はどこにでも存在すると思うので〜いろんなところを見るのも経験かなっと思ってますね。なので地元一つだけにするつもりもないかな〜うん

Q. で〜そのコミュニティーとか関わりっていう面ではあまりその3.11後の影響しているのでは〜?それとも逆に

まあきっかけとなったとは思いますね〜。。よりそういう事についてしりたいと思ったし〜また似たような災害って絶対出てくると思うので〜今回の3.11をベースっていうか知識として身につけておいて〜他のところに行って伝えるような〜感じの人にはなりたいなーって思いますね。

Clip3: 「10年後の自分」

Q.今後の事についてお伺いしてもいいですか?何年後の自分はどうしているかとかじゃないですけど〜例えばじゃあゆうなら10年後?どうしてるかなって今の時点で〜

10年後ってもう31とかですよね?そうえすよね〜wなにしてるかな〜そういうコミュニティーには何かしらの形では参加したいなーと思いますね〜市民センターとか結構活動してるので〜そういうところに参加したりとか〜あとまあ仙台で言ったら光のページェントがあってこれは違うなw〜あーこれは学生のうちにやりたいことだなw合唱も昔やってたんでーまたやりたいなって言う思いはあるしー書道も習ってたんで〜書道もやりたいなって思います。そういう自分ができる事から〜またコミュニティーに参加していろんな人と繋がってってーいろんな話きいてーって言うのは未だに思いますね〜。。それはこれからも続けていきたいなーと思います。