菊地篤志さん

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被害にあったご家族のお話を中心にインタビューさせていただきました。現在は地元から少し離れた場所に住んでいらっしゃいます。ご職業は漁師で、菊地さんの海に対する気持ちもたくさん聞かせていただきました。


海に対する気持ち

Q:震災後、海に対しての思いっていうのは変わらなかったんですか。

うーん、だ、津波、俺目の当たりにあのー、閖上のこっからずっと行ってあの誤差路、ありますよねあの、閖上を橋の手前。あの歩道橋あっとこ。あそこの家さ息子と2人で走って逃げて、助かったのね。うん、して。目の当たりに見てんのね、その津波も真正面からくっとこ。人も流れていくのも見て何人も見たし車も流れてく家も流れてく、で、本当あの、海生き地獄みたいなとこまで全部見たのね。でも、海さ、その船さの、乗るって言ったときは、乗るったときは、う、うーん、何の恐怖心もなかった。うん。だからなんていうのかな。海が悪いんでないんだよね。海は俺たちはこう、ね。生活の糧として職場であって育ててくれた海。ね。収入ほぼもたらしてくれる海なんだよね。悪いのは津波なんだよね。海は悪くねんだよね。うん、だから恐いとか、っていうのは一切なかったね。海さ出っときは。うん。

うん。いや、うーん、みんなやっぱりこう、おやも、ねえ小山君にしても古田さんにしても、恐くなかったってこう、どうでしたかっては、い、聞かれたけど、別にそんな海が悪いんじゃなく津波が悪いだけだから、うん。だ、別にこの、恐くはなかったですっては、うん。

Q:なるほど。今もこう、津波がくるんじゃないかっていう恐れとかはありますか。

いやないね。うん。来たら来た。うん。来たら来た、だね。

Q:凄い。そういう考えで。

うん。だってそんなんいつくっかわかんない、ね。わかんねえのさ神経ピリピリさせてさ、ストレス溜めながら仕事したって。うん。I want you~ なんてAKBの歌でも歌って操縦してたほうがいいね、かえって。(笑い声)フォーチュンクッキー~なんて。(笑い声)うん。だってね。千年に1度とかっていうね、そんな毎回毎回来たらね、あんなのばり来たらば日本つづ、ね、潰れてしまうっちゃ。うん。だ、少しその辺はあんまり、ね。自然だから。うん。


漁師という仕事

Q:仕事は菊地さんにとって生きがいみたいな。ものなんですか。

漁師って、全部仕事は同じなんだけど、漁師って、目に見えないもの捕りにいくっちゃね。ね。畑ならさ、大根でもキャベツでも、自分の目で、いいも悪いも判断できる。ね。あ、こいつがいいとかこれがとり頃とかなんとかってありますよね。海の場合はなんにも見えないものとってる。だ、自分の感と経験と、運と、で勝負してかなきゃいけねっていうか。ね。だからそん時のその、大量したときのその感動。うーんしてこう今、今12艘船いんだけど、やっぱりその中でのそのやっぱり水揚1番になったとか。とかっていうときにこの感動、なんていうだろうね、こう。うーん、言い表せね、この、こう、こう、っうってこう。(笑い声)いうのが、やっぱり他の仕事ではないっつーこの達成感っていうか何て言うのかなーこういうの、こう、うーん重機乗っててもダンプ乗ってても、んーそのやっぱほうゆうような、やっぱり海、陸の、そういう感覚っつーのは他の仕事では俺なんね。やっぱり海でないと。うん。

Q:こう、震災があったあとにも、やっぱりこう自分が生活をやり直していけたのはその仕事があったからだなっていうのは感じますか。

うんうん、それはあるね。うん。うん、やっぱり、でさ、あの、重機の免許とっても、最初物珍しさだから、ちっこい重機からこのおっきい重機までの、乗んのね。段々段々とさ、すとやっぱり、ああこういんだ。ああいうんだ。ああこうなんだ。こうおっきいのはこうなんだとやっぱ好奇心半分でやってからずーっといくとおおー楽しいなっていうのね。でもほいつが1か月2か月3か月となってって、そ、だいたいの重機乗り回してしまうとわ、うーん。と、この3か月くらい経ってくっと、えー何やってんだよ俺ってこう。なってくんだね仕事慣れてくっと。でまた今度大型免許取ってダンプ回して、あー砕石積んだアスファルト積んだ、いろんなの積んで、ね。どこの現場ここの現場ってーと、おおダンプってこういうのなんだ、幅で、うーんでも楽だなーとか高いとこから目線が違うなとかなんとかっていうんだけど、そのままだこう、ん、何か月か経ってくっと、何やってんだ俺ってこう、んー、なんだね、して、ん、海は、海だって赤貝いてろくが、えーと9月の1日っから翌年の6月の30日までの10か月そぐようなのね。だっと同じ仕事なんだけど、違うんだよね。うん。


震災後の仕事量

Q:その震災の前と後だったらその仕事変わったとか、何か変化とかってありましたか。

変化っていうかうーん量的なあの、水揚量。が震災でまるだいたい2年間くらいその海そのまんま、だったのね。誰も漁することもできなって、船もぜん、全船なくなったんで。だから赤貝、赤貝が、あの、とれ、とんないから増えたんだよね、いっぱい。捕れる量がはんぱでなくなって。だから、せん、ん、5月の買得になって安く前まで、だいたい5時半にこう、閖上出発してくのね。朝の5時半に出発して、出発して、だいたい6時半、ごろにあの漁業さあのゆっくり走って、みんなで10艘ず、12艘でずーっと走っていくのね。して現場さ到着してから、ほの、会長さんが今っから操業してくださいってなって。でね、あんまり捕りすぎて、市場下落すっから、40分ずつ2回しか仕事してこねえの。

うんして。少なくして希少価値を高めながら売ってきましょうっつーので。だから、早い時だと、朝、んーだいたい2時間くらいで1日の仕事終わりなのね。

でこう下世話な話だけど、ほんで、金額的には、あのーだいたい平均10万くらいとってくんだよね。

うん。うん。だから、んだそういうやっぱりこう金銭面に対しても量的なその感動ね、すっとやっぱり陸の仕事ではちょっと味わえない。うーん。


戻る、戻らない

Q:仕事は菊地さんにとって生きがいみたいな。ものなんですか。

最初はね。うん、だから、うーん、当初のやつではもっと、こんな長にかないで、ふ、んと、3メーター嵩上げして、ていうような、感じだったのね。して、あの震災の時民主党だったじゃないですか。政権が。ほんときは、どこでもあのー閖上に住むっつうんだければって、換地してあげますよってなったのね。してあのー、民主党から今度自民党政権になったらば、なったとたんに今度俺のうちんとこが、規模縮小みたいな形であの、危険区域になっては。してあの換地して土地はあげないよってその、なったんで、していまだにほや。目標が立てらんねじゃないすか、ね。ああいう状態で。その、はいれば、土盛りしてその嵩上げ始まってんだっつーんでなければ、あんで、俺んちどの辺さ土地もらえんのかなとか。どのくらい、ん、土地もらったら家建てたらいいのかなとかっていう、ね、先が見えないっちゃ。なんにもなってねえから。だから、それよりもね、で50にもなってやってたってこ、いやーこんではー、と思って、なんかこう、ね。早くしにやんねえとだめだなーっつーんで。で、あーいいわと。閖上はいいわ戻んないわって。うん。でここさこう引っ越して。最初は閖上さ、引っ越して、やっぱ港も近いし、ね。から、閖上さして、閖上の人間だから閖上さ住んでっていうのはあったけど。やっぱりああいう長引いてね、市長と何考えてるかわかんないけど、ずーっと長引いてっと、やっぱり、最初はね、行きたいと思ってても、ああいう風にずーっと長くなってっと、先見えないからどうしてもね。だ、この辺にもね、閖上さもう戻んないっていうい人いっぱいいんの。閖上、まあ閖上さ住んでて、最初当初は閖上さ戻るって言ってたんだけど、あんまり長引いて先が見えないんで、いいわって。子供さん小さい人はや、学校の問題もあるし、とかいろんな問題。年寄りの人んなれば病院の問題とか。この辺だと結構近くさ行けばすぐ病院でも、ね。す、スーパーでもなんでもあっから。なんだけど、やっぱ方いう人らはもう、待ちかね、うーん、ない人はもう、うーん、全部こう、借金しても全部家建てて。うん、だ、俺の、親父の実家の人も、こど、うーん、の娘さん子供小さくて小学校に入るっていうときになって、で、閖上さ戻る、たいんだけども、学校もできない、家も建てらんない、何もできないってどうすればいいのっていうので、してあのー、もりせきの人たちって、あのーモールが、イオンモールがありますよね、まえ、ね。あそこの近くんとこさ、もう土地買って家建てたのね。だ結構同級生の人もね、だいたいこの辺さ結構いんの。もう建ててわ。うん。で閖上さね、同級生124人いてね、亡くなったのが7人くらい。津波で亡くなってんだけど。閖上さ戻るっていう人誰もいねえよ。同級生で。うん。ある先輩さっき、先輩の奥さんささっきいくんだ。こんなこと言ったらば妹の人に失礼だかもしんないけど、800人の人亡くなってんだよって。あのまじでって。 してまだ40何人も見かってないんだよって。そこんとのうちさね、嵩上げして、そこさ住めるって。んだそう思ったときにね、やっぱ、ああーんーそれもあるなー。800人の人亡くなって、命が亡くなったとこのまた40何人が見つかってないとこの、どこさいっかもわかんないとこの、ほの上さ嵩上げしました家建てましたって住めるって。な、んー先輩の奥さんはもうだめって。いかないって。して、その俺たちの年代になっとやっぱ長沼君も同じだけど、お孫さんいるような、ね。年だっちゃみんなだいたいみんなね。すとその、息子の嫁さんが、行きたくないって。うん。だ自分はいいけど、その息子の嫁さん。とか娘さんとか、が、なんでそこに行けなくちゃいけないのっていうような。のがだいたい聞くと、だいたいほういうような答えだね、みな。うん。


現地再建

うーんでそのあんまり執着してそっちゃあんまこだわる必要俺はあんまりねえんでねえかなと思う。うん。やっぱり、ね。(咳払い)命あってのね。だから。やっぱりなくなってるっつー現実だっちゃ。800人も亡くなって、あんだから。いや、ね、故郷だからそこ大切にするのはわかっけども。ね。それよりもやっぱり命あってのだから。安全性を考えて。なにも、閖上の人がその、ね。この煙草の中のここんとこさ住まいばだいたい昔っからね、だいたい顔なじみの人なんだから。ね。いいわけだから。あの、なんもこっち、な、んで、今んとこじゃなくたってこの安全性を考えて陸地のね、奥の方さそこんとこさ下、して、そこを閖上の町にしてでも、いんでないかなって、俺は思うね。うん。何が何でも閖上のあの町あそこの町って。っていうのはちょっと、うーん。俺は、くんね、国の予算とかなんとかってこういろんなのあっから、ね。ほういうことも言ってんだかなんだか俺は、俺たちはわかんないけど、でも、安全性とか、やっぱ生活してく面で、考えれば何が何でも閖上っつーんでなく、別に閖上の町をつくれば良いだけのことであって。うん。俺はほう思うね。うん。

Q:その土地に執着するんじゃなくて人に。集まれば

うん。だ、人が、閖上の人が全員で移るっていう。うん。だ、集団移転じゃないけど、閖上の町をまた別なとこにつくれば、ね。すと前のように1丁目2丁目3丁目4丁目5丁目6丁目7丁目っていうのをき、し、規模縮小しながらも、やっていけば。そこんとこになれば、元の閖上だっちゃ。ね。だと思うのね。うん。何が何でも閖上のあそこの町にね。っていうのは俺ちょっと可笑しいんでねえかなと思うのね。うん。なん、執着、なんで閖上く、だって今ね、この便利な世の中で誰だって車持ってる世の中でね。ぎょ、港が近いとかなんからってね。どっからで、車で5分も歩けばどこだっていかれっちゃ今。閖上の港までこの辺、ね。東部道路の借りに、東側にして、ね、そこに町つくったって3分もあれば閖上までいくんだから港まで。うん。して利便性と、東部道路の、東でも西でもいいけど、その近くさえあれば、ちょっと行けば、スーパーでも病院でも学校でも近くさ、っんとあんのね。うん。で今んとこだって、あの更地を、ね。借りにやってほこに家建てます。学校どうすんの。病院どうすんの。スーパーどうすんのってなったら。そんなことよりも、近くんとこを、やって閖上の町をぽんとこっちのほう持ってくれば。うん、別にほんなね、悩むことでもねえんでねえかなって俺は思うのね。うん。

でましてやね、今の若い人たちなんかあの現状見てる人もいる。うん、閖上中学校と小学校さ何千人っつー人、ね。避難して、その目の当たりのほの津波っでみて。ね。人流れてく、車流れてくっていう。俺も何人も見たのね、車ん中でこう助けて助けてって流れていく。人も流れていく。あともう生き絶え絶え流れていくって。何十人も見たのね、ほういう人。そういう人も全員亡くなってるわけだ。ね。して、なん、その中で俺たった1人だけなのね、息子と2人で。1人しか助けらんねかったんだよ、1人だけ。1人だけ。だ、ほういう中で、ね、そういう現状踏まえていう中でほこんとこさまた戻るっちゅうよりも、安全性、ね、今っから生活してく人の安全性を考えたらば閖上の町をそのままぼんと持ってって。すれば。うん。すと、津波来たってここまで被害なかったから、っていうので。ああ安心なんだって、生活できっから、俺は何も現地再生、現地再生でなく、別にこうしても、俺はいいなと。うん。うん。と思うね。だからほの、現地再生もいいけどほの、こ、ね。仮設っつー、あのー、集合住宅、復興住宅建てっとこもいまだになんにもない、ない状態、更地で家もぽつぽつ建ってる状態で何にもなってない


トラウマ、当時の記憶

でも、俺ね、日和山って、震災後、一回しか登ったことねえの。うん。なんか登らんなくて。してあの閖上中学校の、正面、門とこさ、あの、中学校で亡くなった人の、慰霊碑あって。キクチナナミってうちの娘の名前もあんのね。船乗ってても、あの中学校の前の通り何回も通んのね。でも、ウィンカー挙げて曲がるって、まが、まが、まが、ん、何て。曲がれないのね。うん。娘ん名前んとこさ行けねえの何だか。どうしても。だから、なんかのって、っつー時は、行ったとき。うん。はあっけど。な、なんだろ、この、ね。行けないんだよね。だ、ウィンカー挙げて曲がればね、すぐなんだけど、ほれができねえんだよね。うん。あーあるなっつうのもわかるんだけど。ごめんね本当。ほんと、うん。できねえんだよね。なんだか。ただ、ね。娘は、むす、娘がね、娘が、震災の日の夕方なんだよね、上がったのが。(咳払い)大橋の、根っこで、だいたい公民館からだから、だいたい800メートルっかくらい流さって。して夕方に、後から知ったんだけど、見つかって。虫の息でこう、ちょっと息あったみたいなんだね。して、上げらって、泥だらけで、ほのまま救急車さのしぇ、乗せ、乗って、出発する。息引き取るだったのね。娘は。っていうんだよね、見ってた人が言うのには。しておふくろは、次の日、12日の日、うちの女房が、仕事先から帰らんなくて。して、実家に泊まってわや、次の日の朝娘探しにっつって、来た時、お、俺のおふくろは中学校の、3階さいたのね。そん時は、まだ、こう、喋れる状態だったんだけど。して。うちの女房が、で、娘探しいっからって行ったときに、そのあと、携帯読んで、亡くなったんだね。だから俺は、息子と2人で、歩道橋の上から震災の日の11日の、11時半、12時ごろ、水引いたんで。そっから閖上の方しさ。で、みんなで避難して。そっから今度、車に乗せらってあの東(04:07)小学校ってとこさ、あの避難して。いったんだけど。だから、わかんねのね、現状がね。して、たまたま、俺の妹、妹、ん、で妹がばあちゃんとナナミは、公民館に避難させたからっていうから俺は安心しったのね。したら、って、や、大丈夫だべ、避難したから助かったなーと思ってたらば、後からんなって次の日なったっけ。ここも、ね。公民館はもたないから、中学校さ移動しろ。やって、ほの途中で、津波で流さったのね、俺の娘だのわ。して俺のおふくろは、先にその、ちょっと体、脳梗塞やってたもんで、あ、まともに歩けねえから、ある人が車に乗せてって中学校の門のとこまで行って、中学校の玄関の門過ぎてけん、玄関とこで津波でこう、水さぬれたのね。おふ、ていうんだよ、おふくろは。なんか、ね。うーん。亡くなってね、して二人とも亡くな、亡くなったんだけど。(咳払い)だ俺は安心してね。次の日、名取市の市役所の玄関とこで友達と、いやーどうだったのーとかって、うーん俺たち避難してたから大丈夫なんだーみたいな感じで、ほの、わかるまではね。ほの日、の何時間くらいっかだけちょっとにこにこってできたの。あと次の日っからは、後、娘、を探すことだけ。っていうの。みんな、避難所。ん。ね。避難所全部まわって、名取市。あと、名取一中だ、タテゴ小学校だ、どこかここだって、ね。(05:54)や。すと中学校。閖上中学校から、何人。バス何台でここさ避難してくんだーっつうの、だ、来る時間聞いて、してそこ乗せて。バス降ってくんの、ね。ひ、降ってくる人さ娘見ねかった、娘見ねかったって。して今度小学校からこっちさ来る、小学校の人さも今度聞くさいったりとか。して、何日目でや。9日。9日目かな。ほれも、世の中さこんな悪いことするっていうか、面白半分で情けない人もいるんだなっていうのが。ほの、娘見つかる日ね。あの、避難所で、なんにもしないでぽつんとしてしてたの。そしたら俺の携帯に、女の人から電話かかってきたのね。あの、菊地さんですよねって。はいって言ったら。あのね、七郷、仙台の、七郷中学校に、閖上中学校から避難、閖上中学校の生徒で、菊地ナナミさんっていう人避難してますよって、いたずら電話あったの。で俺なん、一週間以上もね、探して娘見っけらんない、っかった時だったのね。して遺体安置所とかも行ったりして、見てたときに、いたずらだよそいつ。して今度女房と2人で、あ居たんだっつて、で俺いくべっつって今度あのガソリンない時に、行って。したら、いやーそういう人いませんって。いたずら電話だよね。はー人これっくれ苦しんでんのさ、よーく面白半分で娘います、娘さんいますよなんていたずら電話、よーくできるなとおもって。して、その日の帰ってきて女房と2人でがっかりしていたときに、うちの親戚の子があの、名取市であのボランティアやってて。してあの、なんかね、聞いた話によると、空港の遺体安置所に、棺の番号が33番で、閖中の女の子の遺体あるんだってよって言わって。ほんで行ってみっからっていって、いって。してあの、顔見て、服装とか。確認して、して娘、あー娘だったーって。そこで見っけたんだけど。でその。人間って面白いもんで、棺の番号が、うちの母親も亡くなって、うちの母親が、棺の番号が27番だったの。して娘が33番だったのね。して、どこの避難所探してもいないと。でこれは亡くなったんだと。で遺体早く見つけなきゃいけない。して、遺体安置所さ行くのね。すと1日目にこう、並ぶっちゃね、遺体こう。遺体安置所にね。すと、自分の中さどっかで生きててほしいっていうのあるっちゃね、誰でもね。すと生きてるって勘違いしてんだよね。して、見てんだよ。おふくろの顔もなんも、娘の顔も。ずーっと開けて、あ、違う。あ、違うって。して33番も27番も見てんだよ。見てんだけど、頭ん中では、他人にしか見えねえんだよね。して、1日目にこう、50人運ばれてきた。すと、なん、繰り返しだいたい見んのね。み、見て、すと、あーここさいなかったって。んで明日運ばってくれる遺体もいっからって。すと、この最初の50人は見ないわけさわね。して、今度60人目から、次の、まだ、見るんだよね。とそいつの繰り返しなのね、ずーっと。百何十って。200、300っていうまで。してこっちのほうは、うんいなかった。あそこはいないんだから、違うとこ見っぺわって。なってくんだよね。して母親は、母親は女房が中学校で言葉かわしたっつーから、体も悪いからたぶんどっかの病院、が、どっかにあの保護されってるって、自分で解釈してんだよね。で頭ん中さわ、あーおふくろは、たぶん病院さいっから、大丈夫だと。いや娘だけなんだ探さなきゃいけねえの。してこう、顔みてんだけど、してあの、死に化粧でその、化粧して、口紅とかぬって、髪型も違ってっからわ、ぱっと見っと、似てっけど、いやーこんな髪型してねえしこんなんでないなってなんだよね。してそいつがずーっとなってって。してある時そのいたずら電話あったときに、ボランティアの親戚の子から電話きたとき、さんじゅ、33番っつったらば、1日目に見ったっちゃわね俺。って。してその27番だっちゃ今度おふくろね。しておふくろは病院さいるっつうのあっから、見てんだけど、わかんねえんだよね。して、身元確認不明では、遺体東京さ持ってっていかってわ、東京で火葬されって、お骨になってこっち帰ってきたのわね。おふくろは。で、俺の、(咳払い)次男が、友達死ん、あの、亡くなって、探しったのね。したっけほの、友達の友達も一緒に探してたんだけど、たまたまうちの息子がいなくてほのやつが遺体安置所さ行って、ほの、先に火葬なってっかもわかんねえからって、写真確認してたんだっちゃね。で写真確認してたらば、ほの友達からうちの息子さ、なんだケイちゃんのばあちゃん亡くなってたとわって。して、く、口の息子が行って、したっけ今度息子が来て。お父さん、ばあちゃん亡くなってたわーって。御骨んなってたわーってなって。あらーって。だから、あ、見えてねっつうか。ね。なってんだよね。おかしくなってんだよね頭が。で、(12:11…)娘か、ん、娘遺体、あいつして、火葬して、その後だから、1か月、40日か45日くらいっかな。ほの後くらいかな。しておふくろだってなって、して今度お骨、ね引き取って。あの、お寺さんのほうさ、ね。納骨っつか、おさ、納めてもらって、ていう風になって。だからなった人つうか、そういうなった人じゃないとわかんない、わかんないっていうか、憎しみ、ね。身内亡くなってる人でないとわかんない。たぶんなって、んん、うーん亡くなった人でないとたぶんあの、感覚っつーかああいうのたぶんわかんないと思うよねやっぱ。うん。長沼君ちの1番下のね、子供さんと同級生だったから。見てんだけど、見てんだけど他人だ。他人だって。して頭ん中さどっかで生きてるっていうのあっから、亡くなったって自分でこう、何て言うんだ。認めたくないって。だこう他人に見えてくんだねみんなね。うーんそ。うーん。ね。なんだか。うん。ほういうのはあ、あったね。


発見されたということ

諦めるわけじゃないけど、やっぱり、供養して、ね。線香着けて供養して、やることしか、できないし。それ、ね。してやんないとなーと思って。で、何て言うのかなー。うちでは2人とも見つかった。ね。して、なく、亡くなって、うちでは2人見つかったと。して、見つかんない人も、ね。最終的には40何人いるんだけっど、まだ何百人も見つかんないとき、に、あー亡くなったんだ。いいなやー。いいね。もう見っかって。って言われるのね。だけど、ああ見つかって。ああ。うん。火葬もしたし、あれだから、うちではいがったのかな。でもなんで俺、見つかったからいいねってなんで俺言われなきゃいけねんでって。なんで。な、ほんでなんで俺の娘(15:37…)亡くなんなきゃいけねかったんでって、こう。とほういうのこう、くう、ずーっと回ってんだよね。亡くなった。見つかった。ああよかったね。でも何で死ななくちゃいけねえの。なんで見つかっていいねって言わんなきゃいけえねえのってこう。うん。は、あ、うん、あったっていうかずっと思ってるね。うん。何でって。いやみ、見つかんない人にしてみれば、おや、ね。見つかって、火葬して、一周忌も終わって、とかっていうのなっけど。でま、ほの反面なんで亡くなって見っかったのさ、良かったねって。ね。心が意固地になってんだか、(笑い)ね。なんかわかんないけど。


仏壇

Q:やっぱり自分にとって凄い大切な、ものとなっているんですか。どういう、仏壇というのは菊地さんにとっては。

うーん。や、うーん。人、ん、んー。なんつうのかな。人集めてね、みんなに供養してもらう場じゃなく、やっぱり、この家の家族。ね。姿はないけど、家族、が、ここにいるっていう。やっぱり、ね。うん。だ、さい、だね、やっぱり。うん。亡くなった人やっぱりお線香つけて供養する。毎日供養する、何する。してこう、うちの家族なんだっていう。うん。だ、んのための仏壇っていうか。うんやっぱ家族だね、やっぱりね。うん。親父、おふくろ、んね、息子と娘と。いっぱい菊地家の、この家の家族っていう。うん。だね。やっぱり。

Q:家族をつなげるための凄い、役割を。

んだね。うん。

Q:どんなことをお話されていたりするんですか。仏壇の前で。

うーん。さ、震災ね、なって、娘おふくろ見っかってってなった時は。うーん。何でとかってこう、何でこうなったのーとか、もう少し上手く逃げらんなかったのかとかなんとかってこうね。無意味なことさ問いかけてみたりとか。とかあっけど。今は、今は、だね。うん。朝、仕事さ行く前に線香さつけてく時は、おはようって。だね。おはようだけかな。うん。おはよう。あとはね、こうしてくれああしてくれっつったってね、無理な質問しても、ね。困っぺから、こっちも。(笑い)うん、だ、ただ、線香つけて手合わせておはようって言って。うん。だけだね。うん。

Q:今。こう、私たちが、あの、こう、亡くなった方にできること、っていうのはどういうことだと思いますか。

亡くなった、こと、人さ、うーん。なんなんだべね。うーん。簡単でむずかしいね。(笑い)うん。やっぱり、うーん。や、うーん。くい、くい、だけ、やっぱり、最大のことはやっぱり、ね、なんでもないやっぱり供養っていう。言葉にしか、過ぎないとおもうのね。うん。やっぱり。うん。手を、手、手を合わせること、あ、っつーとかなんとかじゃなくやっぱり。うーん何て言うんだ、供養。やっぱ供養、っていうか、手、合わせるっていうか。うん。ほういう。だってね、何を望んでいいんだか、ね。うん、もう、わか、わかんないし、何をやってもらいたいか何を言ってもらいたいか。ね。どうしてもらいたいんだかっつうの。はっきり言ってわからないことだから、やっぱ漠然とっていうか、簡単っていうか、なったければやっぱり。うん。手を合わせて、手を合わせて。ね。供養してもらうっていうのが、1番なん、で、ね。うん。だ最初のころは、岸壁とか行ってても、その。いろんなとこから人来て。その、頑張ってください頑張ってくださいってこう。っんと言われんのね。だけど、言うの簡単だけど、何を、何を、な、どのように頑張ればいいのって。うん。だ、かえって頑張ってくださいって言われる言葉に対してほんと反感持つ。うん。いや、あっちはね、そういう気持ちなくて、応援してくれるっつー気持ちで頑張ってっていってんだけど。うーん全部なくした人にしてみれば、何を思ってどういうやってどのように頑張ってって言ってんのこの人って。は、うんあったね、最初のころはね。うん。鎮魂っていうか、ね。やっぱりどうしようもね、供養、供養だけしかないんだよね。うん。まあ後のこと、ね。もの、ものだければね。ものだければ買うなり借りるなりなんだりしても、補えっけど、やっぱりそれだけはね。ちょっと。うん。できない、ことだから。うん。だからやっぱり亡くなった人に対して供養してもらう。うん。だけだね。


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石川ふき子さん

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震災があった年の6月に、妹さんと愛島仮設に移ったそうです。


移転、将来の住まい

Q:いつからこの仮設に移動されたんですか。

えっとね、6月。3年前の6月だから何年だろ。20、23年。23年か。の6月、始め。うん。だから1年更新の契約。1年契約なの。ここに入ってるの。だからなんかあれば、もうなんか出てってくださいって言われたら、はいそうですかって出ていかなきゃなんないのね。何か問題起こせばね。うん、だから6月になったらまた新しく、また、契約。更新、更新かな。なんていうのかな、そういう、そういうのをしなくてはなんないのね。だからそろそろ来るなーと思って。みんな最初は言ったときは1年契約だと思うのね、ここね。うん。

Q:これからってどういうところに住みたいとか決まって・・・

いや、ありますねー皆さんやっぱし。西、あの、ん、高速道路。西川。西川ってとこの気候は好きなんだけど、まあ正直帰りたくないね。私は津波は見てないんだけど、やぱっし映像で流れる、てるのを見る、てポンていうのをしたらあれだけども、あの、津波のときはもう私、もうすぐにね、上に行ったから。映像で見てね、あれが恐くてね。うん。(10:47・・・)やっぱし、住むとこないから。うん、公営住宅?そういうとこに入るより他にないですよね。 もし代替地。お金も、うんぬんで代替地もらったとしても閖上なんですよね。うん。閖上からちょっと離れたとこ。そったらもう同じことだなあと思って。うん。閖上に、戻るほか、ないなあって。ちょっと若い人たちの子供さんもいるしね。なんか将来的にさ、子供たちの将来もあるし。若い人たちは家、土地、求めてね。うん。出てってる人もいるし。準備してる人もいると思うのね。うん。私は私で60過ぎると、この、市の、やってることに従うほかないです。行くとこないですもん。うん。自分で食べなさいって言われても資金ないしね。子供たちも独立してまあお母さんに迷惑をかけないようにとね。うん。


仮設でのくらし

Q: 仮設の、この生活っていうのはどうですか。どのように感じてますか。

ねー。ちょっと贅沢言う、うーん。苦痛に感じるときがある。で私、狭いって言ったらばあれだけど、まあ私は、贅沢させられてきたと同じなのね。嫁に来て新しい家に住まわせてもらって。失礼だけど貸家ってとこには、あの、そういうとこに入ったことないから。もう、来たときはね、狭いし、二部屋分も、二部屋分しかなくて、もう圧迫感が凄かったの。うん。そういう贅沢っていえば贅沢、ね。新しい家に住まわせてもらって。貸家なんて入ったことないから。だ、戸惑うとこもあるのね。やっぱしこういう思いには聞こえんだけど、生活音って聞こえるわけじゃない。水道の流れた音とかね。そういうの経験したことないから。やっぱし凄い圧迫感はあって。そーだなー。夜眠れないでしょ。眠れないから家で(13:13・・・)家の娘って帰ってくるの遅いのね。んーなんかあの。朝方の1時半とか2時半に帰ってくるから。私寝ないで待ってる、待ってる時もあるんだけど、やっぱし体が具合悪くなる。寝てないし。だから導入剤っての。あれ飲んで眠りはしてるんだけど。あれ飲んでも一晩でも眠れないときあるの。そうすっとおかしくなってくるんだろうね。だから夕方でも、車でどっかいこうって。私が運転できないから。お父さん、車でどっかにいこーって。誰、誰が運転するんだーと。俺運転するんだぞーって。うん。ほんとにほら、本当に、申し訳ないんだけど、もう、ここに居たくないときあんのね。うん。あの部屋もう、一人でいると思うと。うん。贅沢な悩みね。これね。住むとこないひともいるんだから。んな、贅沢な悩みだなーと思うんだけど、やっぱし、ね、一軒家。貸家でもいいから一軒家には住みたいなと思う。でも2階っとかは私嫌いだから。しんどい。年とってるから二階に上がんなきゃいけないでしょ。一軒家。うん、一軒家に住みたいなー。それを今希望してるんだけど、抽選になれば。抽選だから。抽選外れればどこにいくかもわかんないし。ここ2年くらいでできれば。あと何年ぐらいかかるか。ちょっとね。一応28年とか29年にできるっていうけどもね。うん。一戸建てのほうができるの早いんですって。だけど、そこに入りましょってすぐはいれないでしょ。


心の支え

Q:そういう生活をされてる中で、なにかこう、支えとな、石川さんにとって何か支えとなるものってありますか。

うん、うん。特にね、あの、第2水曜日と、第4水曜かな。手芸の先生が来てね、教えてくれる。お裁縫教えてくれるの。お裁縫教えてくれるの。今そこに、ああいうのね。(15:24・・)うん。そういうの教えてもらって。縫ってるのね。今は、これ3月だけど、今5月バージョンで、男の子も作ってんの。うん。糸とか針とか持ったことないんですよ。うん。針とかね糸とかなんかとおしたことない。雑巾ぐらいは縫ったことあるけど、それお裁縫なんてしたことなかったの。ここ来てから、いろいろ、ね。うん。

Q:その手芸を始めたいって、そういうイベントに参加したいって思ったきっかけはなにかありますか。

うーんやっぱしね、やろうっていう人から誘われて、やってます。できるから、私らも初めて、ね。針とかぬったこともないのにできてるんだから、できるから大丈夫だよって声かけられて、やるようになったのね。うん。本当にね、恥ずかしい話、糸の種類、針の種類、全然わかんなかったの。この歳になるまで。うん。あっと、やっぱし糸があるっていうのはわかってたけど、針にね、あのー、絹針とかいろんなの、全然わかんなかった。初めて分かった。ほほ。(笑い声)恥ずかしい話。わかります?全然そういうのわかんなくて私。うん。ね。針も種類あったんだーと思って。この歳になるまで。ほほ。(笑い声)これやってる感じで、あ、絹糸はこれだなーとおも、木綿とか。あと、穴糸っていうのもわかんないね。そういうのやってみないと。うん。

Q:そこで初めて知り合った方とかいらっしゃいますか。

閖上はね、顔見知りはいたんだけど、名前が分からなかったの。こんにちは、おはようございますって挨拶するぐらいで、なんも話したことはないんだけどここに来て、お友達になってね名前分かって、同じ2町目の人なんだ~って、うん。ここにきてからやっぱりみんなと話してね、名前分かって、話するようになって、あと夕方6時くらいかな、散歩。みんなで歩いて。


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遠藤伸宏さん

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閖上生まれ閖上育ちの遠藤伸宏さん。閖上への想いや、復興の現状を熱く語ってくれました。


借り上げ住宅

Q: その以前はどちらに住まわれていたんですか?
仙台の白丸ってとこの借り上げ住宅。仮設じゃなくて借り上げ住宅。

Q: 借り上げ住宅ってすいませんよくわからないんですけれども。
用は長沼さんとかここは仮設住宅で市の土地やいろんな土地にポンポンポンって建ててもらってる。でもうちの被災した住民たちは全部まかなえきれないくらい住んでるわけ。住みきれないのよ仮設住宅に。全員が。うちの住民たち被災した人たちが。そうすると空いてるアパートとか市の住宅に入っていいよって。この震災ってあまりにも被災したから空いてるアパートに入ったら、補助金上限いくらだったら出しますよって。契約して1年とか2年とかで契約して、だから仮住まい。そこは仮設とか違うシステムかもしれないけど他では出せなくて生活費は出すけどお金は出さなくていいですよ、家賃は払わなくてもいいよってとこに我慢して2年かな、2年半ぐらい住んだのか。2年半ぐらい狭い3畳の部屋とかに。

Q: 住み心地はどうでしたか?
家に帰んない、帰りたくないからね、だって自分うちの町の人ってほとんど半分以上は多分半分以上って6割7割は持家だったのね。自分ちの家なのね。アパートとかじゃなくていくら古くたろうとちっちゃくても自分の家。だからそうゆうところにこうゆう共同生活したことなければ、俺もうちもそうゆう共同生活したことないから慣れないんだよんね。しかも全然顔見知りじゃ、うちはここ名取市だけど、俺行ったの仙台市だから空いてないから仙台市行ったわけ。そうするともちろん近所に知ってる人いなければ、そうするとうちの家族だけ。不安になるよねやっぱり。みんなバラバラだし。あの人あっちにいるこっちにいるあっちにいるとか。

Q: じゃあ近所付き合いとかは全然なかった?
ない。ないまま2年半過ごしてきたからね。そこはストレスになるよね多分。逆にあとうちはそうでもないかもしれないけど言えないってのもあったらしいよ。被災して借りてるんですってって言えないって。あの人被災したんだって周りから言われるし、全然知らない人となりのアパートの人があの人被災してるからあの町から来たんだよって言われるからいやだって人もいる。支援物資とか寄付金とかももらってるんだってってそうゆう変なうわさたつと嫌がらせもあったって、中にはあった人も中には聞いたことある。だからあんまり自分のね、私はどっかから引っ越してきたんですってあんまり言いたくなかったって人もいた。うちはそこまでいわなかったけど。仮設とはまた違うんだよね借り上げ住宅っていうシステムは。


行政に求めること

Q: 遠藤さんはどのようなことを市に求めて。。。
市に求めるのは住民と市の話し合いをもっとしろっていうだけで、全然しないようにイメージなのねしてないっていうかもっとこまめにするべきであって。お互い言い分あるからどんどんいいだして、だからこっちいいよこっちだめだよやっぱ中間とりましょとかそうゆういくら話し合いしてもいいのに、話し合いの場がなかったからこうなっちゃうと思うんだよね。だから住民のこっち側の意見は法律的にはもう全然クリアできないんだよね、だからうちのほうのんでください、いやいや頑張ってじゃあ半分とってくれとか、じゃあ頑張ってアピールしてきますとかそうゆう話し合いしてかないと、ある日突然これしかねえこれしかねえこれしかねえって毎回押し付けられて、それだったらあんたらあなたたち誰もすまないよねって行政の人たち結局。俺らの町だよねってもともと。俺らのこうしてくれって望んでるのになんで上からこうゆう市にしかしねえってそれおかしくないってなるよね。だってあの日復興ってたぶん俺あの日自分その町に住んでる人たちがどうゆうその町のなかのどこで住みたいかだと思うんだよね。自分は怖いから自分の町出て山のほうに引っ越したいって言えば引っ越す人たちにはこうゆう補助あっからこれで終わりですよってそれで終わりだと思うんだよ。それ単純なんだけど、それがないんだよね初期のやつが。だからこうなっちゃうんだと思うんだよね。たしかに人数多いかもしれないけど、被災した市町村の1地区にすれば多分うちの町1番多いはずね宮城県の中で。その復興の1地域の対象があまりにも多すぎるから言い分なんて100人いて100人違うかもしれないから、それはまとめるの大変かもしんないけど、でも少しずつやってけばすむわけで。やってる気配が見当たらなかったのがこうゆう結果だと思うよねまだ。


閖上

うちの閖上の人ってほんとちっちゃい町だよ多分ね。7200人ぐらいなのかなあの日まで。でも俺は特にだけど東京行ってもどっから来たの言われたら閖上から来ましたって言っちゃうんだよね。それってどこにあるのって言われっと仙台の、仙台空港の隣町なんですとかって説明しちゃうんだよね。仙台の人宮城県だったら多分宮城県で仕事しててあんたどっから来たのーとかって言われっと俺閖上ですっちゅうとだいたいみんな分かるわね、あー閖上ねーなんちゅって。だからそのぐらい自分の町、名取から来ましたて閖上の人絶対言わないからね閖上の人は。宮城県の人も東京行っても宮城県から来ましたって言わないんだよね仙台から来ましたって言うんだよね。それと一緒なんだよね。閖上はもう飛び越しちゃってるんだよね。仙台も飛び越して自分の町だけアピールしてるみたいだけど。そっからちょっと説明するのがうちの町の人の習性なのかな。だから自分の町いかに好きだったか誇りに思ってたかちゅうあらわれなのかなって思うよね。一つの本当の立派な町だったからさ昔はさ。市に合併される前は。だからそこの中でそうやって育ってきてっから俺はずっとそうやって教えらってきってからは、ましてこの漢字1個しかないからね。閖上ちゅう漢字中国の字でもないから、この字世界に1個しかない漢字だからさ。閖上としか読めない漢字だからそこにも誇りあるんだろうね多分ね。


慰霊碑

Q: 今度慰霊碑が日和山のほうに建てられる計画があるって、たぶん知ってると思うんですけれども。
見てきた。まだまだ途中途中。

Q: それはどうして見にいかれたんですか?
見に行かれたっちゅうか毎日閖上に足はこんでっから今日こうゆう状況なんだって見るからね俺は毎日ほぼ毎日のように行くから朝から晩。

Q: 慰霊碑についてはどう思われますか?
慰霊碑はうちの町に関してはあれ多分市でやるんだよねね。ちょっと遅いかなと。遅いよね多分3年半3年過ぎてるんだからもう。別にたしかに復興の事業に関係ないかもしれなけど慰霊碑なんてっていう人もいっけど別に大きさとか形の問題じゃないから本当にちっちゃくてもこの町でなくなった人たちの為の慰霊碑だからちっちゃくてもいいからやるんだったらすぐできることだったと思うのね。今他の市町村終わってるから何もかも遅いのかなってうちの町。だってうちの町いくとお寺もお墓さんも全部ないのよ見てれば分かると思うけど。でも今仮のあるのねお寺さんとかは。でもやっぱ地元に帰って手合わせたいよねお盆とかお彼岸とかそうゆう時ね


防災教育の必要性

Q:震災も過去のことだと思うんですけれども最近風化が進んでいるというふうにメディアなどを通しても感じるんですけれども、今後震災などで起きたことを伝えていくべきだとは思いますか、それとも過去のことは過去だと割り切って。
いや、日本だから災害は絶対ね水害もあるし津波もあるし火山の国だからね、噴火とかもあっからどこで何が起きるか分からないから本当だったらうちはちっちゃいうちから小学校とかからなんちゅうの防災教育みたいなのを小学校とか中学校で取り入れるべきな国だと思う最低でもね国として火山はここに火山があるよとか本当に小学校の授業とかで教えて。それも津波もこうやってこうゆうことがありましたよとか水害こうゆうとこのダムが撤回するとこうゆうことがありますよとかちっちゃいころから教えてトラウマになる前から教えてもいいよね国としてね。地域も市とか県とかじゃなくて国がやるべき。授業の国語、英語教えてるなら防災教えたほうがいいと思うね日本のほんとに。徳川家康がどうだこうだっていう前に明日起きるか分からない災害に備えて子供たちに知識を植え付けてないといざ何かあったとき何にもできない人になっちゃうよね、そういえば学校で習ってたからこうゆう時はこうゆうとこに避難したほうがいいとかって。まあそれはね、ないほうにはこしたことないんだけど。そうゆうふうに落ち着いて行動できると思うんだよねちっちゃいときから教えていれば。それを教えてる学校なんで多分どこもないないはずだから教えてくっていうか、そうやって教えていくべきだし、津波来ました、ね、でどっかで火山噴火しまいした、もう終わったことで次また違うとこでだから風化もそのことに対して風化してるかもしれないけど違うことはもう始まってるわけで別のことが逆に言うと震災前なんだよねまた新しいことゆうと次の何が起きっか分かんねえ俺らは前にいるんだよね。この起きたことに対してまだ同じいことを起きるにしたってこれもう終わっちゃっただから次俺らはここに生きてっけど、ここにあるか分かんない震災前を近づいてってるどっかの違う何かの現象に。だからやっぱもっと学校の風化させるとかしないとかどうか分かんないけどもっと国として阪神だったりこうゆう地震の多い国だったり水害多い国だから小学校なったら少しずづ教えてってもいいのかなって思う。今すぐこのへんの地域で教えろちゅうとトラウマの子供とかいっから言葉でも敏感に過敏に反応する子供たちもいっからやっぱりちょっとずらして後3年5年後ぐらいから教育に取り入れてくとか小学校だったら5年生から教えていくよとか俺はしてもいいと思うねほんとにね。だって英語よりは教えるべきだよね最初にって思う。だって日本なのに英語ペラペラしゃべるより自分の国のことの何か分かんないといけないし、大人になったら旅行とかいって海外に旅行とか行ったら海外とかでも地震起きたり噴火起きたりして巻き込まれる事故あるわけでしょ日本人が。その時対処できなくなるでしょ自分の町でその地域だけでその防災教えてたって地域にしか役に立たないんだったら国としておっきい防災の授業が週に何時間あってもいいのかな子供のころからって思う。だから国でどうにか取り入れないと、この名取市教育委員会だけの問題じゃなくて宮城県とかじゃなくて国から率先してやってもらえる国になってもらわないと多分何回やっても同じこと繰り返すんだよねと思ってこんな大きいこととかちっちゃいことのたんびに。ある程度知識、まあそこのなかでの授業全国のなかでの共通の知識あってあとは地域の特性でその市とかが教えるべきで、うちは山に囲まってからとか、うちは海に面してる学校だからとかそうやって少し違ったなかで教えていけば俺は多分ね、最低でもみんな命だけは守れると思うんだよね。だって命なくすと何も面白いことね、周りの人だってつまんないからねやっぱり。形なくなっても命さえ守れれば、そこだけは最低でも自分の命は自分で守れるような授業を、風化させないとかそうゆう関連していくとそこまでたどり着くのかなって思うね。


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羽賀 慧さん

宮城県柴田町出身、お住まいの20歳。取材当時、東北学院大学の2年生。佐々木さんや神さんと同じく、東北学院大学のサークル・災害ボランティアステーションのメンバー。現在その活動の一環で、私たちのビデオインタビュープロジェクト同様の「メッセンジャープロジェクト」のメンバーとして2013年の夏に主に活動されていたという。

1.メッセンジャープロジェクトを通して: 被災地⇒「復興地」

Q.実際に自分たちが、たとえば事前で調べて分かった情報とか、テレビでうつされている情報じゃない、本当に生の声を聴けたことってありますか。

A. 一番衝撃的だったのが、あの、気仙沼唐桑町の、唐桑旧小学校仮設っていうところがあるんですけど、そこの会長さんに言われたことで、その被災地っていう言葉を使わないでほしいってことを言われたんですよ。それにはほんとにハッとして。まずメディアでも、被災地の今っていう番組があるんですよ。もうこの時点で被災地っていう枠でくくってるじゃないですか。でも実際、現地の人にしてみれば、瓦礫は片付いたし、生活のインフラは安定してきたし、別に被災はしたけど、現在進行形で被災地ってわけじゃない。過去が被災地であっただけど、今は「復興地」みたいな言い方をしなきゃいけないのに、メディアとかはその被災地って言葉をまだ押し付けているってことですかねえ。なんでやっぱりこういうことが聞けるので、現地にはいかなきゃいけないって風には思いますね。

2.ボランティアとは「両立」: 自分のためのボランティア、人のためのボランティア

Q. 羽賀君が思うボランティアってなんだと思いますか?

A. そうですね。俺が思っているのは、自分のためのボランティアと人のためのボランティアっていうのを両立する、と思いますね。人の為だけにやるって言うのは、ちょっとおれは間違ってると思うんですよ。人の為、100パーセントひとのためっていうのは無いと思うんですよ、ボランティアから自分がまなぶことを否定してると思うんで、まあ半分くらいは人のため、あとは半分くらいは自分の為、自分がまなぶためって風に考えて、俺はそういう風に考えてボランティアしてますね。

3.将来への目標、計画:近場で復興に携わる

Q. 羽賀君自身が今後自分の将来においてなにか建ててる目標とか計画とかっていうのは何かありますか?

A. そうですね、今の時点で、また変わるかもしれないんですけど、今の時点では、結構具体的になってくるんですけど、自分はその宮城県職員として、宮城県の為に働けたらいいなっていう。で、それで行政職だとそういういろんな企画とか、ボランティア関係の企画とかっていうのもできますし、宮城県全体の仕事もできるので、なんかそういう人のためになるような仕事ができたらいいなっていう。で、それを通じて近場で復興、復興だけじゃないですけど、近場で復興を自分で考えていきたいし、少しでも力になっていきたいと思っています。

貴田慎二さん

桜井さんと二人で応じてくださったインタビューから数週間後、個人インタビューにも再びご協力をいただきました。主にCDP(ご自身の運営するスケートボードパーク)や行政について語っていただきました。

1.市の職員に対する反感、不信感

Q. こないだ、つい先週お邪魔した時にあまり深く聞けなかったのが、こちらのほうに市の職員の方が来て、ここはもう終わってるって言うのはよくありますよっておっしゃってrたんですけど、何しに来てるんですか?

A. 何しに来てるんだろうね、市の職員っていろんな、その市にもいろいろ何々課っていうのがあって、工事とかやってるから建築家とかそういうのもいろいろあるし、市の生活課とかのもあるし、その人だねたぶんね。その人が結局こっちでこうセブンイレブンからこっちの道路っていうのは危険区域とされてる場所で、そこで会えて何かやってる人たちって言うのは、こいつらなにやってるのっていちいちみにくるんだよね。そういうのは、ここは住居をたてちゃだめって言われてる場所だから、そこに住居構えてるんじゃないかとかそういうの色々みにきてるみたいで、ほんとになにやってるのかはわかんないけどね。

Q. じゃあ定期的に業務としてきてるうえでそういうことを口に出すっていう

A. そう!まあ気にしてないけどうちとしては。疑問をもってたとしても、市の職員って税金で食べてる人たちだから。そういう人たちをまあこういう僕らみたいにね、こういうことやってるやつらがそういう人を信頼できるのかっていったらしないし、何だったらちょっと敵だって言う風に思っちゃってるところがあるから。まあそれにしても暴言だった

Q. まあ市の職員って言うのは決まった業務があってそういうことを言う人もいると思うんですけど、同じ経験をしているであろう人がそういうふうに傷つくようなことをゆってくることってありますか

A んー

Q. そんな、たとえば今一生懸命やってることにたいしてそんなことやったって何のためになるのとかいうような言葉を・・・

A. あーそれはもちろん、その暴言はいたおじさんにしても、まあまずなにやってるのっていうのを聞いたうえで、いやこういうのを作ってで、こういうためにやってるんだっていっても、結局ここの土地がどうなるかわかんないのにこういうのやっててなんかいみあんの的なことはゆってきたりするから、でもそれを気にしててもしょうがないし、それ気にして何かやらないよりはやってたほうがいいから・・・ほんとそういうのいわれてもそういうの基本きにしないっていう。言われたら頭来るけどね、まあ引きずらず。Q. じゃあそのこちらに来る人っていうのは、きださんがこのパークを作った想いとか、一応知ってはいるんですか?

A. うん、だから何やってんのかって言われたら、素直にいやこういう活動をしてますっていうからおそらく知ってはいるとは思うんだけど、結局市の方向性として僕らが、俺が思ってるだけなんだけど、やり合い事っていうのは市がこの荒浜っていう土地を買い上げて自分たち、市がやりたいようにやりたいんだから結局は僕らは邪魔なわけで。だってこの土地を売らないって言う姿勢でいるわけだし。あっちサイドはあっちサイドでじゃまに思てるだろうからだからセブンイレブンとかの看板とかでもさ、僕らへの対する文句があいうふうに形として出ちゃうわけだから。荒浜の地区だけでなくて被災地のひとたちは市政であるとか県政であるとかまあ国もそうなんだけど、全く信用してない。

2.10年後の自分

Q. 今現在の話から未来、みたいな感じになるんですけど、先ほども與沢さんにもお尋ねしたんですけど、10年後の自分っていうのはどんなかなっていうのって・・・

ぼんやりもしてないですね。全く見えないっす。だから十年後、なんだろ。10年後もここを続けるように頑張りたいくらいの感じのことしかないですね。生活が完全にこのパークやってるっていうのが完全に中心で、自分の生活が成り立ってるんで、今の頭だとその考えしかないですね。とにかくこの場所で、このパークを続けられてる、そのビジョンしかないですね。そのためにはっていうのが、しかぎゃくにないっす。生活はもうどうなってるやら。うん。そんな感じ。

與沢さん:パークで食ってるでしょ

パークで食ってればいいですけど。実際問題スケートパークで、スケートパークだけやってて食えるかっていったら全国的に無理なことなんで、それがどんな有名なとこでもパークだけでは正直やっていけない。だからまあ、なんでもいいんじゃない、仕事は。お金を稼ぐ法っ法っていのうは。バイトでもいいし、ちゃんとした契約の元正社員だったとして、でもやるからにはここをやるためっていうのがあるから、ここの営業時間内に働くってことはぜったいしないし、うん。10年後あんまかわってないっすたぶん。

3.CDP、仲間

やっぱ一人じゃできなかったなっていうところがあるんすよ。始めたときはひとりでしたけど。だからこの2人が加わってよかったなっていう。うん

(笑)

だからね、ぼく桜3本に拘ったでしょ?

與沢さん:あーそれはそういうこと

桜・・・つい最近植樹したんすよ。苗木なんすけど、最初は一本しかたてるつもりなかったんすよ。で、でも、まあこのスタッフ三人

與沢さん:泣かせるこというねえ

言わなかったもんね。

與沢さん:そうだね。

だからね、場所もこだわったんですよ。

與沢さん:ほーう

場所が三角形になるようにしたでしょ。

與沢さん:へえーちょっと

ずっとこのトライアングルでっていう

與沢さん:おー

伸びたら、入り口から、その桜3本がみえるんすよ入口からこうだから、

今だから明かす。僕考えてるんすよ

工藤紀子さん

取材当時26歳の工藤さんは吉田さん・花坂さんと同じくNPO法人六郷七郷コミネットにて勤務。ご出身は秋田県ですが、仙台が「大好き」だそうです。

1.将来は復興関係の仕事よりも・・・

Q. 先ほどこう、仙台に今後もいらっしゃって、ずっと住んでいかれるみたいなことおっしゃってましたけども、やっぱりこう、あれですか、外にでていくとか、秋田に戻るとかいうことよりも、仙台で、復興といったものに関係して進んで行きたいって言う気持ちですか。

A. あーでもそこはちょっとあの、もう復興関係の仕事はもうやめようかな、ここで終わろうかな、という風に考えていて、んー。やっぱりこう、ふっこうっていずれは終わるじゃないですか・・すいませんまたちょっとだめなこと言うかもしれないんですけど、(笑)、復興って、絶対途中で、途中じゃないですね、復興するので、ずっとその仕事で食べて行けるわけじゃないじゃないですか、一人暮らしっていうのがあるので、ちゃんと安定した仕事に就きたいっていうのが本音ですね、はい。

Q. 仙台を拠点に、なにかそういった仕事を見つけて・・・

A. そうですね、はい

2.町と沿岸部の、震災への見方の違い

心境の変化、そうですね、震災のときはですね、震災からその、前の職場に行ったとき、その介護関係の職場にいたときは、こう、街中だったんですよ。ほんとに駅前とかすごい町の方で、震災、地震があったって感じじゃないんですよ、なんかもう昔の話って感じで、なので、私自身もそんな状態で、でもみんなもう震災から立ち直ってるんだくらいの、震災の話も出てこないし、全然こう、考える事もなくなってたんですけど、やっぱり仮設の管理人を通して、全然こう復興してないなっていう。みんなそのいつも私が出勤すると、復興公営住宅がどうのとか、その、お父さん津波で亡くなったよねっていうそういう話は絶対出てくるんですよ。だから、あーなんかmzんぜんちがうんだなってやっぱり、現場って言うか、その、ね。やっぱりあk説の方と町の方では感覚が全然違ったって言うのが目の当たりになって、ありました。ちょっとびっくりしちゃいましたね。

3.震災後、家族関係の変化

Q. まあその、そういった感じで結局被災された若者自体もご家族との関係が変わったと思うんですけれども、工藤さん自身もやっぱり3.11後なにかかわりましたか、ご家族との関係とか、もっと連絡とるようになったとか・・・

A. あーそうですね、連絡は結構頻繁にとってるんですけど、話題はやっぱりもうこういう仕事についてるので、震災関連の話が多くなって、でやっぱり親もそっちのほうに興味をもつようなって、こんどきたときちょっと沿岸部行ってみようかなーなんていうはなしがでたりだとか。で、まあ秋田も以前ちょっと震災があって、津波が来たことがあったんですよ。で、そこに実際連れてってもらったりっていうのはありましたね、はい

Q. じゃあご家族の中でも今までとは違った部分もお互い共有しようよみたいな・・・

A. そうですね、はい。今までだったらたぶんこの震災関連の仕事してなかったらそこまで震災の話なんてしなかったでしょうし、こう、ふーんてかんじでテレビ見てても何も、両親・・両親は思ってるのかもしれないですけど、私はふーんていう程度で、(笑)はい。その程度なんですけど、やっぱり今はこういう状況なんで、話題にはありますね。

花坂明恵さん

花坂さんは吉田さんや工藤さんとおなじくNPO法人六郷七郷コミネットで勤務されています。福島県郡山市の生まれで、2歳からずっと仙台に在住。

1.仙台という地元への思いと将来

Q. やっぱりこう、仙台のところに長い間住んでらっしゃってのその3.11だったってことで、やっぱりここの地元にかんしての地元はつよかったりだとかしますか?

A. そうですね、長く仙台に住んでいて、私もやっぱり歴史が好きで仙台が過ぎく好きなんですけど、すごい面白い歴史をもっているし、先祖代々、私の家はずっと仙台なんですね。100年とかたぶん200年とかそういう単位で私の家はいるので、もちろんずっと住んでいたいなって思いはあるんですけど、なかなかやっぱりずっといることは、就職的な意味でも、やっぱりもうちょっと外に出ていきたいなって言うのもあるので。

Q. 外っていうのはこの県からの外ってことですか

A. はい、そうですね。将来的には出て行ってしまうかもしれない。戻ってくることがあるかどうかはわからないですね。

2.同世代の震災復興への意識・関心

Q. 周りの方で、たとえば同じ年代の方で、積極的に活動してらっしゃる方とかいらっしゃいますか?知ってる友人とか

A. インターネット上での友達とかたまに最近はないですけど、本当にヒサイチがまだ泥だらけの状態だったときにしょっちゅうこっちのほうには来てたっていうのは見てたんですけど、ほんとに自分のこう身近な友達とかはもう一切興味がない(笑)震災のその被災地に興味がないので、やっぱりいっしょによくご飯食べにいったりとかお茶したりとかまあ休みがあって、3人くらいの人に会ったんですけど、まあそれ以上かな、前の職場にも言ってみたので、けど誰も聞いてこないですね。私の仕事に関心が無いですね。

Q. それっていうのは時間がたってしまったからそうなっちゃったのか、もともと県外の人だから、とか、・・・

A. 周りの人はみんな仙台の人で、だけどみんな親戚とか被害受けてないんですよね。自分たちがやっぱり山の方にいるから全然見てない、現状をみてない。いろいろあったってことはわかってるけど、むしろあえて触れないってことはあると思いますね。

Q. あえて触れないってことは、今更そういうことを話すって言うことに対しての・・・

A. そうですね、結局なんだかんだって言ったところで自分は動かないし、動けないっていうのがあると思います。時間もだいぶ経ってるので。やっぱりなんか、私の周りは、ですけど、みんな仕事がなかなか見つからないとか、自分の将来に不安を持っているひとが多くて、そうやってひとのことまで考えてる余裕がないっていうのが大きいです。まあやろうと思えばたまにお休みくらいはでてきてなにかはっていうことはあるのかもしれないですけど、そういったことをするほどの情熱はない、ですね

3.危険区域へ戻ること=悲しいことの繰り返し

Q. なんか、お年寄りの方にお話しを聞くときとか、その3.11前のその生活に戻りたいとかなんかそれ以上はもとめないから元の生活に戻りたいってお話する方が多いんですね。今言ったのもまあそんな感じですかね。3.11前の仙台市のように、それ以上は求めないから、復興していってほしいっていう

A. そうですね。でもまあ、あの危険区域の方にはやっぱりひとはもうはいらないほうがいいんじゃないかなってふうには思いますね。みんな荒浜の人たちはもどりたいってふうには言ってるんですけど、被災を受けた人たちの台でおわりにするべきじゃないかなって思います。はい。また同じことを繰り返すのは、やっぱり悲しいことの繰り返しになってしまうんじゃないかなっていう。いまのそのもどりたいってひとの気持をむしするようなかたちになってしまうんですけども。

尾形沙樹さん

東北学院大学2年生の尾形さんは、地元・気仙沼で自宅を流されてしまいました。愛する地元・気仙沼市のため、震災以前以後変わらず地元で活動されています。

1.被災直後・周りとの被災状況の違い

すごい戻っちゃうんですけど、私震災の時高校2年生から3年生になる時だったんですけども、被災した時に、気仙沼も被災地っていうあれがあるんですけども、けど周り被災してる子少なくて、家も亡くなってっていう気持ちを全然わかってもらえなくて、友達に。っていうところもすごい悔しくて。だから周りはみんな何気ない会話をするんですよ。それがみんな持っていないものの話やもうなくなってしまったものの話で、すごいつらかったですね。気仙沼より被災した人って少ないっていうか、なんですけど、すごい被災した人と全然何もなかった人がいて、そういうところもまああったし、私もそうしてあの時はつらい思いをしたんですけど、私自身もだんだん気持ちがいってしまっていてそれが怖くて、周りに広めないとと思いながら・・・

2.気仙沼を「観光」するということ

Q. 最初の方にこう、気仙沼の観光のほうで お手伝いしたりとかいうはなしがあったんですけど、その観光で来てる人たちに関してなにか思うことってありますか?どちらかっていうと現地を見てもらいたいっていうのもあれば、そういった気持ちできてるのかなっていう、視察でちゃんときてるのか、ちょっと浮かれた気分できてるのか・・・

A. それはそれで、どんな気持ちでも来てもらってもいいと思ってるんですよ。来ていただくってことが大事だと思うので、でもなんかすごいいいとこだったよとか、これはこうだったよっていうのを持ち帰ってほしくて、持ち帰ってメディアだとかではわかんないところを持ち帰ってほしいなって・・・

Q. さっきからきいておもったんですけど、一番簡単かもしれないんですけどその、伝えてくっていうことが大切ってことですかね

A. と思いますよ。そのシンボルだった船も無くなってしまったので、今後どうやって残していけばいいんだろうていうのは・・・

3.気仙沼: 一度来るとみんな好きになる

Q. いまあのボランティアに色々な人が来てくれてありがたいっておっしゃってましたけど、いまいろんな方に話を聞いた中で、ボランティアが最初はありがたいんだけどだんだんちょっと、なんだろ、しつこいっていうかたもいらっしゃったんですよ。そういう風に思った事って・・・

A. そういうふうに思ったことは一度もなくて、みなさん一度気仙沼に来て下さると気仙沼みんな好きになるんですよ。よくきいてすごいうれしくなるんですけど、ていうのも、最初は皆さんボランティアとして観光でとかでくるんですけど、その後その地域の人と継続的にかかわるなかでのちのちは個人的に来るようになるんですよ。なので全然。だからボランティアありがたいなと思っていて、なかよくなってふつうに親戚みたいに仲良くなって、お友達みたいになってくので、全然いいと思いますね。

Q. そういう方は若い方もいらっしゃるんですか

A. 若い方もいらっしゃいますね。気仙沼自体はほんとになにもないんですけど、人が温かいからまた行きたいって・・・