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芳賀 正彦

震災直後、芳賀さんはNPO吉里吉里国を立ち上げ、今でも活動中です。海の塩水で弱って木を切って薪として再利用する活動に取りかかっており、2度目の出荷を果たしました。津波が去って、どん底に落とされた気持ちから復興に向けての積極的な活動の変化を教えていただきました。

私も、津波の次の日から行方不明者のこう、無惨な遺体、姿を何体も目にしてね。子供から、飲み友達から、喧嘩相手から、おじいちゃんおばあちゃん。眠れない夜が続いたんですよ。行方不明者の捜索、ガソリンスタンドのくみ上げ作業。クタクタになって帰って来てね、さぁおにぎり食べて寝ようとしても横になるとね、すぐその犠牲者の姿が頭に浮かんで来る。
真夜中、何時間も私は焚き火の炎を見つめる事しかできなかった。
その炎はですね、俺に色んな事を教えてくれてる。津波に命を亡くした犠牲者の人達の姿から逃れようとするな、とか。犠牲者の人の苦しみとか悲しみとか、そういった思いを自分、己自身として受け入れろ。なんかそういう風に炎が教えてくれた。

犠牲、命を亡くした人達のそういう悲しみ、苦しみを、俺は自分の事としてしっかり背中に背負い続けながら死ぬで生きていこう、と心に決めた。その日の夜から眠れるようになった。その時から私はもう、怖いものは何もなくなった。だから、その時から、自分の力で助かったんじゃない、津波から助かったんじゃない。犠牲者の人が肩代わりして俺はたす、命を助けられた。思うようになってね。助けられた命をこの地域のために活かそう。残された人生をそういう事のために捧げようと。それは今の変わらない、死ぬまで変わることない。

豊な森を取り戻す。美しい海を、昔の海を復活させる。このふたつはどんな事があっても継続して、子供、孫の代までやっていかなくちゃいけない。

普通、津波時刻の支援物資っていうのは避難所から、被災者から町に申請が入って。その申請が県に来ます、岩手県。岩手県から国に来ます。で、国から、例えば乾電池の、懐中電灯の乾電池がいっぱい欲しいとなると、その申請は国から電池のメーカーに要請がいきます。そしてその電池は国に来ます。また県に来ます。町に来ます。そしてやっと被災者の人達の手に。一ヶ月以上かかります。
米軍から飛んで来たヘリコプターは、ズガズガと降りて来て、何が欲しい、って言ったんですよ、パイロットが。これと、これと、これが必要だ、と言ったら、オッケー。それだけで帰ろうとしたんですよ。で、そのパイロットにね、この事は大槌町とか岩手県を通してから私たちはいただくようになるんかって聞いたら、俺は吉里吉里の手軍だからすぐ吉里吉里の人達が使える、提供できる。で3日後に来たんですよ。

今、外国からも都会、日本の都会、全国からも支援の手が差し伸べられている。大槌町のまちづくりはこうしたらどうですか。金銭的な経済援助はできますよ。俺ら被災者がなんにもしないで立ち上がらないで全てそういうような人に任せて作ってもらった、キラキラ光り輝くような町でも、そこ、ここで暮らしていこうという人達の思いが込められていない限りそら美しい町じゃない。ことなにかあれば守ろうとしないと、ね。中心になるのは被災者であり、これからここで暮らし子供、孫。
だから私はなんにもしないで、被災者だ被災者だ、って言って助けを待つばかりで、世の中の事を不平不満を口にするばかりで、挙げ句の果てはネガティブになってくたばるような人生は選びたくない。毎日毎日、山の中でチェーンソー握りしめて森の上でくたばる。何も怖いものがない。

私は64歳でマイナスから人生のやり直しを始めたんだもの。若いうちはなんでも人生やり直し効くって言うけど、若いうちだけじゃない。64歳からでもやり直し。本当のやり直しだと思ってる。

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